六波羅兵に味方を捉えられた後醍醐天皇は、ごくわずかな供の者と隠岐へ配流となりますが、帝の流罪という暴挙に反感を覚える人々も少なくありませんでした。そして鎌倉では北条高時が政治を顧みず、田楽や闘犬にのめり込みます。
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元弘二年三月七日、後醍醐天皇は今度は隠岐へ配流となった。京から摂津、播磨を行くその最中、備後の豪族児島高徳は、帝にお伝えしたいことがあると待ち伏せを行うが、一行は山陽道ではなく、山陰道から美作に入る予定であった。高徳たちは美作の杉坂に向かうが、既に一行は宿に入った後だった。
そこで高徳は一計を案じ、宿の近くの木の幹を削って、このような文字を書きつけた。
天莫空勾践
時日無范蠡
翌日、一行がその前を通り、一同は誰が書いたのか、その意味は何であるのかを不審がる。勾践は越の王で、その臣范蠡が、敵国呉を滅ぼした故事を引用して、勾践を自分に、呉を北条になぞらえ、そのうち范蠡のような臣が出て来るに違いないという意味だと一同に教える。
その後一行は伯耆を経て、出雲の美保関から船で隠岐へ向かった。その間に持明院統の量仁親王(光厳天皇)が即位をしていた。隠岐の御所は如何にも小さかったが、側につく阿野簾子(三位殿の局)は天皇を励ます。
一方鎌倉では、北条高時が田楽に耽っており、ある夜田楽法師たちと共に乱痴気騒ぎをしていて、「天王寺の、や、ようれぼしを見ばや」という囃子が聞こえてきた。それをある侍女がたまたま覗くと、田楽法師たちはまるで鴉天狗に似た、鳥の化け物のようであった。また獣や鳥のものと思しき足跡がそこかしこに残されていた。
儒学者藤原仲範は、妖霊星は世が乱れる時に災いをなす星で、かつて聖徳太子が『未来記』を納めた天王寺のあたりから、動乱が起こり、国が亡びるということではないかと憂える。しかし当の高時はそういうことにはお構いなしで、田楽の次は闘犬に夢中になっていた。犬たちの死闘を何かのように喜ぶ高時に、眉をひそめる者も無論いた。
隠岐では、この有様では鎌倉幕府が滅ぶのも近いと、三位殿の局は口にする。それを聞いた後醍醐天皇も、自分の復権に野心を燃やすようになって行った。
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大河では最初から闘犬が登場し、高氏がそれに振り回されます。そして鴉天狗も大河のOPの冒頭に登場します。そして「天王寺の妖霊星」ですが、これは楠木正成のことであるといわれており、実際彼はその後、天王寺周辺で六波羅軍を迎え撃ちます(天王寺の戦い)。そして、大坂夏の陣で真田信繁が徳川家康を追い詰めたのも、天王寺口の戦いでした。
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