キリシタン関係でない方のあれこれです。まずサブタイトル通り、第29回は秀吉の老いに伴う「異変」が大々的に取り上げられていました。就寝中の失禁、政の仕組みを変えたい云々を、数回にわたって繰り返すようになったこと。また、奉行が政を行うのではなく、大名が行うと、それも家康の前で言ってしまったこと。そして地震の際に、何かに怯えるような口調で「誰かおらぬか」を繰り返したこと。また、寧の手作りの生せんべいやビスケット、特に生せんべいは好物であったにもかかわらず、「食べたことがない」と一蹴したこと。ビスケットは匂いを嗅いだだけで食べなかったこと、信繫と二人になった場面で、「拾が元服するまでは」と言うつもりで、「捨が」と言ってしまったこと、伏見状で敷居につまずいたことなどなど。
これが文禄五年(1596、慶長元年)、秀吉六十一歳の時ですが、時代を考えても、かなり老け込んだ印象を与えます。特に自分隠居後の政の仕組みを、大名、所謂五大老に委ねると言ってしまったことは、家康に大きな権限を与えることになりました。何せこの時点で、家康は石高も官位も五大老中最高であり、家康が抜け駆けするだけの裏付けは十分にあったわけです。しかも本来家康の歯止め役となるはずの前田利家は、秀吉が没して一年も経たないうちに亡くなります。この五大老については諸説あり、秀吉の関白としての地位と連動させる意味で、徳川や毛利などを武家清華家としたのがその本質という見方もります。この清華家は、元々公家最上位の摂家に次ぐ家格で、久我家などはその代表格ですが、今出川(菊亭)家も清華家に含まれます。
そして真田昌幸が遊郭通いを繰り返すという「異変」もありました。京に住むようになり、大名らしい生活をしたかったからという見方もできますが、その動機についてはやや不明といえます。しかし昌幸の異変は長続きしませんでした。信幸が過去の物を頼りに作った城の絵図が、昌幸の目には如何にも未熟で、拙いものに映ったようで、ここでやっと本腰を入れて城作りに取り掛かったためです。ならば最初からやる気を出せばいいのにと言いたくなりますが、遊郭通い→きりの言葉でばれる→信幸が問いただされる→最終的に昌幸が問い詰められるという過程を経る必要があったのかもしれません。しかしこの人は、築城とか策略は本当に天才的ですね。
その一方で信幸の「異変」です。昌幸の遊郭通いについて、母の薫(山手殿)から問いただされた信幸は、こうの部屋に行って彼女を抱きすくめてしまい、そして正室の稲からは、彼女の部屋に引っ張り込まれてしまいます。結局こうと稲、両方が身ごもるわけで、家族が増えることになった信幸は、弟の信繁に対して、自信ありげに徳川につくことを宣言します。伏見城での一件を知り、「太閤殿下のご様子は」と弟に訊く辺りには、後々の犬伏の別れ、そして関ヶ原の伏線が窺えます。
さらにきりの「異変」もあります。秀次亡き後、ひたすらテンペラ画を目にし、寧の菓子作りを手伝いつつも、どこか彼女らしからぬふさぎ込んだ様子を見せます。そして細川越中守の妻玉に会い、キリスト教的世界に関心を持つようにもなります。ただこれはあらすじでも書いたように、きりが受洗する、信仰生活に入るという確率はあまり高くないと思われます。既に禁教令は出ていますし、その辺りうまく立ち回る才能がある人物なだけに、また別の選択を取るのではないでしょうか。あるいはそれは、信繁の側室となることなのかもしれませんが。
それから大谷刑部の「異変」。この病気がよくいわれるハンセン氏病なのか、あるいはそれ以外なのかはよくわかりませんが、筆を取ろうとして取れなくなる辺り、かなり病気が進んでいるようにも見受けられます。石田三成にとっては、最高のパートナーともいえる刑部の不在がかなり痛いでしょう。しかし刑部も三成も、秀吉の老いをとにかく隠そうとしますが、早晩表に出て来ることではありますし、徳川家康は既にわかっているように取れます。冷静に考えれば徳川の力が大きいことはわかっていたはずですし、他に方法があったのではないかとも思えますが、その決断を下す人がいなかったということなのでしょうか。
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