第29回のあれこれ、まずキリシタン編です。きりは大工のフランシスコ吉蔵が作った十字架を持って、細川屋敷を訪れます。この当時、既に禁教令が出ていたため、表立った布教活動はできず、そのため細川家の屋敷内に信者たちが集まるという形を採ったのでしょう。そこできりは、聖歌を耳にし、また秀次が彼女に遺した絵の女性が、神の母である聖母マリアであると、奥方の玉から教えてもらいます。
ドラマの中では、寧が聖歌の美しさに言及するシーンがあります。この信者が聖歌を歌うシーン、他の大河でも登場していますが、この時代、本来は信者は礼拝中に聖歌を歌うことはありませんでした。聖歌は元々聖歌隊が斉唱するものだったのです。恐らく布教先などで、聖歌隊を編成するのにふさわしい人数が集まらないという場合の、特例措置のようなものだったのでしょうか。実は、聖歌を信者に最初に歌わせたのは、かの宗教改革の旗手であるマルティン・ルターだったといわれています。グレゴリオ聖歌に代表される聖歌は、元々は典礼式文で、今のような讃美歌はまだ登場していませんでした。讃美歌が出て来るのは、プロテスタント諸派がある程度確立された近世になってからで、特にメソジスト派が果たした役割は大きいといえます。
また、寧のセリフに信者の質素な生活という表現も出て来ます。無論布教に携わった神父、あるいは日本人信者には質素を旨とし、『軍師官兵衛』の荒木村重の妻だしのように、領民に自分の衣類を施した人物もいました。しかし当時のカトリック教会は不正と汚職が多く、宗教改革の一因ともなっており、日本に布教に来たイエズス会は、それを正したいという目的で結成されたものなのですが、なかなかこれはうまく行かなかったともいわれています。また、この当時というよりは、1960年代までのカトリック教会は聖母崇拝の精神が強く、他にも様々なしきたりがありました。ですから、この当時聖母が崇敬されたのは、当然といえば当然のことです。ちなみに今はかなり緩和されており、プロテスタント諸派の洗礼を受けた人が、聖体拝領できるカトリック教会もあります。
それと当時の司祭は、背中を信者に向けて礼拝を取り仕切るのがならわしでした。そのため祭服には、背中に美しい文様が施されたものが多く見られました。また、この第29回に登場する司祭は、白のカズラ(チャジュブル、ケープ状の羽織る祭服)を着ていますが、これは今では復活祭とか、クリスマスに着るものとなっているようです。この回では季節は夏のようですので、どちらにも該当しませんが、その当時とでは色の規定が違っていたのでしょうか。他に葬儀でも白を用いるようですが、無論それにも該当しません。
秀吉も度々禁教令を出していますが、南蛮貿易重視ということもあり、いわゆる二十六聖人の件も、京のフランシスコ会の神父のみが対象でした。しかもこの時は、
サン=フェリペ号事件 が関わっていたのが大きいとされています。江戸時代に入って後、今度は徳川秀忠によって、
岡本大八事件 によるキリシタン大名の汚職をきっかけに、伴天連追放令が出されるようになります。この追放令を認めたのは、家康のブレーンとして手腕をふるった以心崇伝でした。その後、島原の乱を経てさらにキリスト教への弾圧が厳しくなりますが、幕府としては信者の処刑よりは、むしろ棄教に重きを置いていたとされ、実際処刑された人数はそう多くないともいわれています。
ところでこの回に登場するフランシスコ吉蔵ですが、このモデルとなったのが、二十六聖人の一人のフランシスコ吉です。ちなみに現ローマ教皇もフランシスコというクリスチャン・ネームで、しかも初のイエズス会出身出身の教皇です。それから、ご存知の方もあるいはいるかもしれませんが、現財務大臣の麻生太郎氏のクリスチャン・ネームもフランシスコです。
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