『太平記』をDVDで観て、そのあらすじをアップしていることは、こちらに来て下さっている方ならご存知かと思います。その『太平記』、鎌倉時代の末期から南北朝時代が舞台ですので、武士の格好も直垂、あるいは水干といった姿が目につきます。ちなみに主人公の足利高氏(尊氏)の旅装も水干です。また女性は、この時代では武家でも小袿に単衣といった格好をしています。これは
直垂と素襖と肩衣 、あるいは
袿と小袖と打掛 でも触れています。
この時代の女性たち、特にある程度の身分の女性が外に出る時は、被衣(かつぎ)や虫の垂衣を身につけています。被衣は元々着物を頭から被ったもので、時代が下るにしたがって、被衣専用に仕立てたものも登場するようになりました。また虫の垂衣は、市女笠のへりから薄い布をカーテン状に垂らしたもので、いずれも顔を見られないように配慮された衣服です。この虫の垂衣などはなかなか優雅です、詳しくは「虫の垂衣 画像」などで検索されてください。元々は平安時代からあった服装ですが、この時代にもまだ受け継がれていました。
ところでこの虫の垂衣に使われる薄い布、これはカラムシ(苧)という植物の繊維からできています。このカラムシは衣類以外に、漁網や紙にも利用されており、越後国がその一大産地でした。このため青苧座(あおそざ)を通じて取引が行われ、この座の本所(実効支配者)は三条西家でした。実は、この公家による座の支配は、『太平記』で武家である尊氏が、京を復興させる際に足枷になった存在でした。しかしその後、戦国時代の到来と共にこの「虫の垂衣」もすたれ、そしてこの服装に象徴されるような、古典的な衣装を支えた公家による座の支配も揺らぐことになります。
しかし苧そのものが衰退したわけではありませんでした。先ほど越後国は苧の一大産地だと書きましたが、この越後国の守護代は、後に上杉の名跡を継ぐことになる長尾氏で、越後の苧座の権限を大きくし、更に公家に代わって、上方と越後との苧の流通を支配するようになったわけです。越後の軍事や行政は、結構この苧によるところも大きかったようです。青苧座はその後、楽市楽座政策もあって衰退します。しかし越後にとっては、やはり貴重な作物の一つであり、かの直江兼続もこの生産を奨励し、後に会津に転封された時も、この植物の育成技術を持ち込んでいます。
その後、越後は苧産地としての座を会津や米沢に譲ることとなります。しかしこの二つの土地は、いずれも上杉氏が入った地であり、元々は越後の技術によって育成された物が、皮肉にも本家を超えてしまったというわけです。
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