『真田丸』の字幕絡みで、メディアの翻訳記事関連の話をしたいと思います。よく雑誌に海外メディアとの提携で、翻訳記事が紹介されていることがあります。スポーツ誌でもそういう記事がありますが、以前ある雑誌の記事がかなり読みづらく感じたことがありました。編集部に問い合わせてみたのですが、そのライターが、かなり哲学的な記事を書くからわかりづらいのだと言われました。
しかしライターがメディアに記事を投稿するのに、そこまで小難しい記事を書くとも思えませんでした。その時はそこそこ時間もあったので、まずその記事の日本語を全部原語(英語)に置き換え、改めて辞書を引いて訳してみたところ、実際はかなり具体的でわかりやすい記事でした。哲学的というよりは、辞書をきちんと引いていなくて、慣用句などが訳されておらず、どこかわかりにくい表現になっていたのではないかと思われます。
改めて、翻訳は辞書を活用すべきであることを痛感させられます。これも何かで読んだのですが、こちらはハードカバーで、昆虫に関する本のはずなのに、なぜか本文中に「苔」という言葉がやたら見られたらしい。原書と照らし合わせたら、「苔」(moss)と「蛾」(moth)とを取り違えて訳されていたとのことでした。恐らく翻訳者の頭の中では、「モス=苔」となってしまっていたのでしょうが、前後の文脈から考えておかしくなかったのでしょうか。
それから敬称のサー(sir)に関してですが、これも以前、イギリス通として有名な方の著書で、サーが大河の字幕同様、苗字についていたことがあります。しかもその方のみならず、もう1人イギリスに造詣の深いといわれる方の著書でも、同じような使い方をされていました。どうもミスターのように、苗字につけるものという先入観があるのかもしれませんが、やはりこれは、名前の前につけるものです。それは守るべきでしょうね。
ちょうど同じ頃、イギリス大使館の広報誌である『Quality Britain』(年刊)を毎年読んでいたことがあります。90年代半ば頃、その広報誌に、かつて駐日大使を務めたヒュー・コータッツィ氏の友人の方(名前は失念しました、今手元にそれがないので、見つかり次第補足する予定です)の談話が掲載されていたのですが、こちらは流石に「サー・ヒュー」となっていました。
スポンサーサイト