『花燃ゆ』時代考証関連でもう少し。美和(文)が久坂の死後、藩政をつかさどることになった椋梨藤太の屋敷に行って、夫の死について椋梨に問いただすシーンがありますが、あれもおかしなものです。何も椋梨が蛤御門の変を指揮したわけではありません。当方のあずかり知らぬことといわれるのが落ちでしょう。しかもきちんと筋道立てて述べるのならともかく、椋梨に取りすがって半狂乱になる有様です。あれでは、無礼討ちされても文句はいえないでしょう。身分の上下というのは、現在考えられているのよりも緩かったといわれていますが、それでも一応は存在しましたし、身分が異なる者が気安く立ち話というのもありませんでした。『天地人』で、直江兼続と家臣が廊下で立ち話をしていたのを思い出します。
しかも奥女中になるきっかけがまた、藩主に兄や夫の死について問いただすというもので、これでは私怨で奉公に上がったと思われても仕方ありません。もちろん、蛤御門に直接かかわったわけでもない藩主に問いただすのも筋違いです。しかもこの時の公式サイトやガイドブック(大河ドラマストーリー)には、緑の打掛をまとった美和の画像と共に、「志、曲げませぬ」とあります。この「志」とは、身内の死について問い詰めることだったのでしょうか。そもそも美和の「志」が何であったのか、ドラマが終わった今でもよくわからない状態です。このドラマには「志」や「至誠」が頻繁に登場するため、何かこういう言葉自体が安っぽい印象を与えている感があります。 本来、使うべきところで使うと非常に重みがある言葉であるだけに、もったいない話です。あと椋梨の酒に毒を盛るとか、その結果座敷牢に入れられて泣きわめくシーンなどは、本物の楫取美和子さんが見たら怒るのではないでしょうか。
本物の美和子さんは、久坂の死後は家で菩提を弔っていて、その後明治近くになって、要請されて守役になるわけです。そしてその後も、姉の寿が群馬に行って病気になったため、初めて群馬に行くのですが、とにかく美和が主人公である以上、空白の部分を作れないから、奉公も群馬行きも前倒しにしなければならない。それはわかるにしても、ドラマの作り方がどこか安易です。なお、群馬編の「学びの場」も実際にはなかったといわれています。この時期学制が交付されて、既に小学校は作られつつありました。ただ当初は月謝が必要で、しかも子供も労働力であったため、親がなかなか学校に行かせ無かったこともあり、その後義務教育は無償となっています。女子教育に重点を置く辺り、何か『あさが来た』を意識しているようにも見えます。もちろん広岡浅子さんは日本初の女子大学を作ったわけで、むしろこの人の方が、まだ大河にふさわしかったのかもしれません。
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