そろそろまた『応天の門』をアップしようかと考えています。ところで少し前ですが、主人公の一人、菅三殿こと菅原道真を祀る太宰府天満宮に行って来たのですが、生憎この天満宮の中にある菅公歴史館の、博多人形で出来た当時の太宰府の様子を拝むことは出来ず残念でした。 また機会があればと思います。
ところでこの菅原道真が、遣唐使を廃止したのはご存知の方も多いかと思います。「白紙(894)に戻そう遣唐使」でしたか。その当時は、唐の情勢が不安定なこともありましたが、日本史の場合特徴的なのは、唐を含む中華帝国の影響から抜け出す、あるいは抜け出そうとする時期があることです。これはなぜかといえば、中華帝国には冊封体制があるためです。つまり、中華帝国を宗主国として周辺国を朝貢国とするもので、周辺国は宗主国に倣い、儒教による国家を築き、また宗主国に献上品を贈るわけです。しかし日本はそうなりませんでした。その一因に、この遣唐使廃止、あるいはそれより前の「日出る処の天子」などなど、中華体制から距離を置こうとしていたからではないかと思われます。儒教は学問として採り入れはしましたが、それ以外の面では、むしろ儒教が卑しむ武と労働が国家の基盤になって行きました。
この中華帝国による冊封体制は、いわば漢民族の支配ということもできますが、歴代王朝の中には異民族によるものもあったため、必ずしも漢民族だけとはいえません。ただ、中華帝国の基盤となる部分は、異民族王朝でも引き継がれていたといえます。また興味深いことですが、
ハプロ遺伝子 というものがあります。これは人類の集団の比較に用いられますが、日本人と比較した場合、一番近いのは実は中国でもなく、朝鮮半島でもありません。チベットなのです。恐らく元々今の中国大陸に住んでいた人たちが、今の漢民族の祖先がやって来た時、ある人々はチベットに逃れ、また別の人々は海を渡って日本にやって来たとも考えられます。日本人が過去何度も冊封体制から抜け出し、独自文化を築いたのは、菅原道真の貢献もさることながら、あるいはこういう宿命的なものもあるのかもしれません。
スポンサーサイト