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ベイカー寮221B/Baker House 221B

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第44回の『どうする家康』武将ジャパンコラムに関するnote記事

では今週もtaketak3946060さんのnote記事から。
この投稿では、『武将ジャパン』コラムからの引用部分はダークブルーです。


大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』第44回~
https://note.com/taketak39460607/n/n3e48f31930a6

なぜ秀頼の成長を身長や宴会でしか表現できない?

これに関しては、やはり茶々の「あと10年もすれば太閤殿下に追いつこう、さすれば太閤殿下の果たせなかった夢を、秀頼が果たすこともできましょう」という言葉に言及されています。無論この時はまだ、家康自身征夷大将軍になってもおらず、今後我が子秀頼が成長し、家康から受け継いだ(家康はこの時点で、あくまでも秀頼の代わりに政務を行う存在)政をどう行うのか、楽しみにしていたかもしれないとも書かれていますし、この年一度の測定が、そのまま関ケ原後の歳月の経過、年表的な意味合いがある点も指摘されています。

というか、仮に身長測定にそこまで注意を払わなくても、普通に本編を観ていれば、まだ幼かった秀頼が、酒の飲みくらべでは、自ら福島正則に褒美を渡すようになり、その後千姫と結婚している。そして第44回最後の部分では大人になっているわけで、明らかに成長したのが見て取れるはずなのですけどね。武者さん本人は、手習いとか学業で示してほしかったのでしょうが。

そしてこちらと似た内容ですが、

毎年正月になったら、秀頼の背丈を柱に削るってよ。
昭和の日本でもあったような既視感のある描写でしか成長を描けないなんて、トンチンカンな大河ドラマです。
例えば、「まだ幼いのにこの手習を見てくだされ。立派な字でしょう」とでも、できないものでしょうか?
日本史だと、割と定番の描写だと思います。
(中略)
他にも、「この歳でもう、四書五経を読みこなしました」という表現も考えられるでしょう。

ここでは
「11年の時の流れの中で秀吉公や茶々さまの背丈をを軽々と追い越していった『成長著しい秀頼公』でしたが『明良洪範』によると、彼は身長6尺5寸(約197cm)、体重43貫(約161kg)の恵まれた体格だったそうです。
淡々と刻まれる柱の傷を行く年月の流れと考え、『正月に柱の傷が刻まれるごとに成長していく秀頼公』と対照的に『容赦なく年月が流れ、世代交代の波が押し寄せ、年老い病を得て苦楽を共にした家臣や大切な人たちが家康さまよりも先にこの世を去っていく徳川家』を表しているのだと思います」
とあります。

実際秀頼は高身長であったとされていますが、世代交代にも言及されているのは興味深いです。
(無論徳川家でも秀忠の将軍就任、本多正純の台頭などがあります)
あと、大樹寺には家康の等身大の位牌があること、またその他にも、著名な戦国武将や歴代徳川将軍の身長と同寸法の位牌があること自体、計測方法が存在したことが示唆されています。

余談ですが体重の測定方法は、江戸時代前期に、『養生訓』で知られる貝原益軒が巨大な天秤で体重を測定しています。

結局、干し柿がなかった三成の最期も回想され、やっぱり文春砲は正しかったのかな……と今週も思い起こさせられながら

この干し柿に関しては、前の回の記事にもありますが、『明良洪範』(享保年間=江戸時代中期成立)という逸話集による創作とされている点、さらにガイドブックでも、この干し柿に関する記述は登場せず、最初からこの話を入れなかったのではと思われる点が指摘されています。にも関わらず、あたかも文春記事でのこのエピソードが、松本潤さんの意向により削られたとあるのを事実のように吹聴している点に触れられ、そして「正しかった」とは、どこのどのような内容が正しいのか、根拠を示してくれとも書かれています。

1回だけならまだしも、2回続けて文春記事のみを基に、鬼の首を取ったかのように
「やはり干し柿のエピソードがない!文春は正しかった!」
と騒がんばかりに文章を連ねるのは、武者さんらしくはありますが、信憑性に欠けるかと思いますね。

松本潤さんの意見が現場で強行され、すっかりプロデューサー気取り、と指摘していた文春砲がやっぱり正しかったのでは……となる。
それでも話題性だけのために小栗さんを起用するなんて、少しでも視聴率を上げたいのでしょうね。

これに関しては、
「延々と文春砲だの女性週刊誌だのゴシップや妄想が展開されていますが、読者はそんな事をレビューで見たいのではないと思います。
貴方のレビューはゴシップ紙ですか」
とあり、
また『日本人なら誰でも知っている教科書に沿っているだけで、その根拠は示されない』という記述もあるのですが、ならばその『日本人でも誰でも知っている教科書』の内容を詳しく解説した方が、歴史レビュアーらしいとも言われています。

この手の記述に至っては、大河でも歴史でもなく、単なる出演者叩きでしかありません。しかも自分が嫌いだからと言うだけでなく、他人(読者)にもその姿勢を強いているとも言えますね。

茶々の打掛の翻し方も、全く美しくないんですよね。
輝元をひっぱたくし、メイクはギトギトだし、これのどこが貴婦人なのでしょう。

こちらに関してはまず
「また女性を容姿で侮辱する事しかできないようですね。僻みでしょうか?」
とあります。そして茶々が激高したのは、西軍総大将で、大坂城を守る役目であった輝元が実は徳川に内応していたこと、石田三成に責任をかぶせたことが、彼女を怒らせたときちんと書かれています。

あとこれは私が関連投稿で書いていますが、茶々は貴婦人、つまり秀吉の側室で秀頼の生母であったからこそ、輝元を扇で打ち据えることができたわけでしょう。

それと彼女の病気について。私もこれについては少し書いており、関連リンクを引っ張って来ていますが、taketak3946060さんの記事には
「茶々さまは慶長6年(1601年)頃、「気鬱」が激しくなり胸の痛み・摂食障害・頭痛に悩まされており、曲直瀬玄朔という医師から薬を処方をされていたそうです。(『玄朔道三配剤録』)」
と書かれており、京都橘女子大学の論文がありますので、こちらでご紹介しておきます。

先ず、医師の曲瀬道三に よれば、淀殿は慶長六年(一六〇一)ごろから「気欝」が激しくなり、 胸が痛み、食事が取れなくなったり頭痛になやまされたりしている。曲瀬はその薬を処方しているのである。秀頼の後見役としての気苦労、家康、秀忠と対抗して豊臣家の位置を維持しなければならない政治的重圧が、体調の変化を生んだと思われる。
田端泰子『「大阪冬・夏の陣」に収斂する淀殿の役割』
joseirekishi_011_1-25.pdf
『京都橘女子大学女性歴史文化研究所紀要』

『大奥』は素晴らしい。
しかし、その感想を見ていると『青天を衝け』の残した負の遺産も感じます。
たとえば井伊直弼が出てくるだけで「チャカポンw」と言い出す投稿がある。
確かにそういうあだ名はあります。
しかし、幕末はその手のあだ名が語られている時代です。
『青天を衝け』では、井伊直弼はそうやって貶める一方で、徳川慶喜の
二心殿:裏表野郎
豚一:一橋の豚野郎・豚をよく食べたから
独公:ぼっち様
といったあだ名は無視している。

まずこれに対して、歴史上の偉人をあだ名で呼ぶのをやめるよう言いたいのか、あだ名で貶めたいのかどちらですかと言われていますね。
(個人的には、井伊直弼の渾名はよくない、徳川慶喜は寧ろ渾名で呼ぶべきと言いたいようにも見えます)
そして井伊直弼『チャカポン』は、『茶道(チャ)』『和歌俳諧(カ)』『雅楽の鼓打ち(ポン)』であること、家督相続の可能性が低かったことから、30歳過ぎまで埋木舎(うもれぎのや)で学問・武術・芸能に力を注いでいたことも書かれています。
ちなみに茶人としての号は『宗観』で、茶道における『一期一会』の理念を広めており、歌人としては私歌集『柳廼四附(やなぎのしずく)』(重文「井伊家文書」のうち)を発表、狂言作家として廃曲となっていた『狸の腹鼓』の復曲(いわゆる『彦根狸』)を試み、『鬼ヶ宿』(『青天を衝け』に登場)を新作した点、『鬼ヶ宿』については大河ドラマ『青天を衝け』でも描かれた点に触れられています。

一方徳川慶喜に関しては、豚肉が好きであったため「豚一」様と呼ばれたり、その時々の状況に合わせて態度を変えるので『二心』様(二心殿)、自ら重要な事項を決断したため『独公』などという渾名もあったことが、こちらの記事で説明されています。

チャカポンが『青天を衝け』の負の遺産なのかとは思いますが、武者さんも今年の大河で
「マザーセナ」「レーシック於愛」
などの渾名をつけたがっていますね。しかも、あまりいい意味ではありません。

そして私がちょっと勘違いしていた部分に関してです。

なんせ本作の家康は、秀頼と千姫の婚礼すら、立ったまま決めますからね。
一言でいえば雑。
一体この家康は、どの時代を生きているのか。
しかも茶々が笑顔を豹変させ、あのメイクの濃い顔を歪めながら秀頼にこう言う。
「あの狸、決して信じるでないぞ」
見れば見るほど嫌になる……。

茶々さまに『秀頼の代わり』を強調されながらも成人するまでの政務を頼まれ、家康さまは部屋を退出しようとしていました。
部屋を出て行こうとする家康さまに「千姫はいくつになったのか」と茶々さまが尋ね、「4歳になった」と息子の秀忠さまが答えます。
「太閤殿下のご遺言通り、婚儀をしかと進めましょう。両家が手を取り合うことが何より大事」と茶々さまが言い、徳川親子は退出します。
家康さまは退出直前呼び止められますが、秀頼公と千姫の婚姻を取り決めているのは双方の親である秀忠さまと茶々さまです。

実はこの婚礼の取り決め関連なのですが、実は私は婚礼と秀吉の遺言である婚儀とを取り違えており、そのため関連投稿では秀吉が決めていると書いています。婚礼そのものを取り決めているのは、ここにあるように秀忠と茶々ですね。

ただどちらにしても家康はこれには関与しておらず、従って
「なんせ本作の家康は、秀頼と千姫の婚礼すら、立ったまま決めますからね」
とはなりません。

それとこの当時の桑名に関して。
実は私もあまり桑名には詳しくないので、個人の方のブログ記事のURLを置かせて貰っていますが、こちらのnote記事では桑名に於ける明治以前の輪中(水害除けに、集落または田畑の周囲を囲んだもの)分布図があります。

木曽三川(きそさんせん)の洪水と治水の歴史
(独立行政法人水資源機構 長良川河口堰管理所)

そしてtaketak3946060さんの記事本文から一部抜粋です。実際森林はなさそうな地域です。

平八郎さんの居城・桑名城は伊勢国の東端に位置し揖斐川に臨む水城(海・河川・湖に隣接して築城した城)です。
城には船着場も整備され4重6階の天守、51基の櫓、46基の多聞櫓が並んでいたそうです。
桑名は木曽三川の河口にあり北西部に養老山地、南東部に伊勢湾を望み、城の北には東海道桑名宿『七里の渡し』があり、伊勢湾をはさんで対岸の熱田宿とを船で結んでいます。
木曽三川の河口に位置しているため、日本屈指の穀倉地帯であり後に尾張・伊勢の米が集積される宿場町になります。
現代でも海抜0mの輪中が点在する木曽三川の河口で『森林伐採で禿山になる様な山』や森林などの無い平野です。

毎度ながら一部しかご紹介できていませんが、他にも色々な点が画像、あるいは史料付きで説明されています。


飲み物-テーブルのホットワイン
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[ 2023/11/26 01:00 ] 大河ドラマ どうする家康 | TB(-) | CM(0)
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Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

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