新六が闇の中を黒い影となって走り出した頃、馬場ではやはり頭巾をかぶった源太郎と順太が、松の幹に身を潜めていた、順太は手槍を持っていた。そして方円斎は、2人の邪魔にならないよう少し離れた場所から見張っていた。既に月が昇っていた。主膳が下城してくるのも間もなくと思われた。
源太郎は主膳を襲うことを心に決めていた。何度か話をするうちに、主膳はどこか冷淡であることがわかり、源太郎との関係は、政に利用するためのものと思われた。ゆえに藩の改革のために斬るしかないと考えたものの、斬ることですべてが終わるのかと不安に感じてもいた。
ひとたび人を殺めれば、その争いは際限なく長引き、新たな血が流れることになるのではないか。与市は君側の奸を除けば、藩政を改めることができると考えている。しかし家老の小笠原出雲は、藩主忠固の意を受けており、出雲を藩政から追放することは、忠固をもないがしろにすることになり、そうなれば改革の行く末は困難なものとなる。
とどのつまり、主君との争いになることを思えば、源太郎の心は重かった。屋敷で自分を待つ吉乃の顔が脳裏に浮かんだ。何ら不自由もないのに、藩政を思うあまり、修羅の道に足を踏み入れてしまったのである。
しかしここまで来てしまった以上、最早引き返すわけにも行かなかった。源太郎は吉乃の面影を消そうとした。主膳を斬れば、最早屋敷に戻ることもないかも知れない。源太郎は我が心を鎮めようとしたが、その時大手門の方角で小さな灯が動くのが見えた。
順太がささやくように、主膳の供が持つ提灯かも知れないと言う。そうだなと答える源太郎は、声が落ち着いていることに安心した。最早迷ってはいない、後は主膳が近づくのを待って斬るだけである。源太郎は胸の内でつぶやく。
「渋田見様、どうやらわれらが出会ったのは悪縁だったようでござる」
すると闇の中から
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
と低いつぶやきが聞こえてきた。
順太が、これから斬る主膳のために、阿弥陀仏に帰依し奉ると唱えているように聞こえた。源太郎もいつの間にか、小声で南無阿弥陀仏と唱えていた。今から自分が振るうのは破邪顕正の剣であると、自らに何度も言い聞かせた。
一方新六は闇の中を走り、やがて松並木が続く馬場が見えて来た。馬場に入ろうとした新六は足を止めた。月が出ており、松の影が伸びていたが、その影に隠れるような形で人が立っていた。その影が動き、月明かりの下に出て来た、頭巾をかぶっているものの、腰の構えそして体つきで、方円斎であることが新六にはわかった。
また方円斎も、新六であると見破っていた。いずこへ行かれると声をかけた方円斎に新六はこう尋ねた。
「直殿がここにおられるからには、渋田見様を襲うのは、やはり馬場ということですな」
方円斎は含み笑いをし、そうだとしたらどうするつもりだと問う。新六は、刺客の中に菅様がおられようと尋ねるも、方円斎は言えぬと素っ気なかった。しかし新六はこう言った。
「その返事だけで十分でござる。それがしが参ったのは菅様を連れ戻すためにございますゆえ」
それを聞いた方円斎は、我らの企てを邪魔するつもりかと言い、わずかに腰を落として身構える。しかし新六は頭を振り、こう答える。
「さにあらず。菅様は刺客にふさわしくないゆえ、お戻りいただき、それがしが代わって主膳を斬り申す」
夜のとばりが下りる中、新六は馬場へと急ぎます。源太郎の代わりに主膳を殺めるためでした。そしてその馬場では案の定、源太郎と順太、そして方円斎が主膳の下城を待って、松の陰に身を潜めていました。
源太郎は、主膳を討つことを決意していました。何度か会ううちに、この人物は自分を利用していることに気づいたためですが、ただし与市が言うように、斬ることのみですべてが解決するとは思えず、それが新たな流血を呼び起こしかねないとも考えていました。まして出雲を追放することは、藩主忠固との対立をも意味していました。何ら生活に不自由することもなく、家庭もありながら、藩政に深入りしたことが思わぬ方向へと進んでいたのです。
これは正義のためであると源太郎は自分に言い聞かせ、順太に合わせるように念仏を唱えます。するとそこに彼らと同じく、頭巾をかぶった者が現れます。方円斎はその者が新六であると見破りますが、新六は刺客の中に源太郎がいるのではないかと尋ねます。言えぬと方円斎は答えますが、その返事だけで新六はすべてを察し、自分が源太郎に代わって主膳を斬ると言い出します。自分に取って大事な女性である吉乃の願いのためでした。
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