源太郎は訝し気な顔になり、こう言った。
「印南殿はそなたの親戚ではあるが、わたしとは何の縁(ゆかり)もない。それなのに、迷惑はかけられぬ」
迷惑とは思われぬと存じますと吉乃ははっきり言うが、源太郎は首を傾げる。
なぜそのように思うのかと尋ね、そして霧ヶ岳で烽火台に火を放った時もに自分をかばってくれたような気がしたが、そうしなければならない理由があるのかとも口にする。吉乃は口ごもったが、恐る恐る言った。
「新六殿はお優しい方だと存じます」
しかし源太郎は、新六に頼るわけには行かないと結論を出す。庭では虫が鳴いていた。
その10日後の夕刻、吉乃は新六の屋敷を訪ねた。この間にも方円斎や順太が訪れて何やら打ち合わせをしており、源太郎も夜中に起き出しては、庭で真剣を振るなどしていた。夫婦の間で親しく言葉を交わすこともなくなり、そしてこの日の朝、いつもより早く下城した源太郎は、今夜は遅くなると言って、出て行ったのである。
この夜何かが起こることは、吉乃にもはっきりわかった。このままでは取り返しがつかないことになると思った吉乃は、新六の屋敷を訪ねることにしたのである。屋敷の門は夕焼けに染まっていた。
年寄りの家僕に案内され、新六が玄関先に現れた。夫を助けていただきたいと切羽詰まって言う吉乃を、新六は屋敷に上げた。未だ妻帯していない新六の屋敷は、どこか寂しげだった。障子を開け放って、夕暮れの日差しを奥まで届かせながら、吉乃に話すように促した。吉乃は口を開いた。
「夫は今夜、どなたかを殺めに参ったのではないかと思います」
「それ上原殿らが関わりのある話でござろうか」
新六は出し抜けにこう尋ねた。事態が急であると見たのである。
吉乃は、夫の源太郎が渋田見主膳と近づきになったため、上原与市たちからあらぬ疑いをかけられたようだと話す。新六にもおおよその察しはついた。そのため源太郎は刺客の役目を求められたのである。源太郎が何度も主膳の屋敷を訪れており、これは与市たちも黙っていないのではないかと新六は思っていたが、案の定だった。
新六は吉乃を見つめてこう尋ねた。
「菅様は誰を狙うかをお話になりましたか」
「いえ、聞いておりませぬ」
そうだろうと思いつつ、新六は狙われているのは主膳だと見当をつけた。今の時点で、旧犬甘派が国許で暗殺を企てる相手は、主膳くらいしかおらず、しかも主膳は常に職務に励んでおり、下城はいつも深夜に及んでいた。源太郎たちはどこかに潜んで主膳を待ち受けるつもりだろう。
ならばもう少し時間があると考えた新六は、落ち着いて吉乃に、自分に何をしてほしいのか尋ねた。吉乃は戸惑いながら、懸命にこう答えた。
「夫に刺客などして欲しくありませぬ。生きて戻って来て貰いたいと思います」
しかし新六は、無理に源太郎を連れ戻すことはできても、それでは面目を失い、卑怯者の汚名を着ることになると吉乃に話す。このことばに吉乃はぞっとしたかのように、頭を激しく振って言った。さようなことになれば夫は生きておらぬと思う、武家の妻として覚悟ができていないと蔑まれるだろうが、私は夫に生きて欲しいと。
新六は感銘を受けたように、吉乃の話をうなずいて聞き、膝をぴしゃりと叩いて、自分が何としても、源太郎が生きて吉乃のもとに戻れるようにすると断言した。
新六を頼ろうと言う吉乃ですが、源太郎はそれに反対します。そしてそれから10日の間、渋田見主膳を斬ろうという企てとその打ち合わせが、菅家で行われていたようです。吉乃は夫とその仲間が、何かを企てていること、そして一旦戻りながらまた出て行ったこと、今夜は遅くなると言ったことに、ただならぬものを感じたのでしょう、新六の屋敷へ行ってことの次第を打ち明けます。
無論吉乃も、誰を殺めるのかまでは知る由もありませんでした。新六は旧犬甘派が敵視する人物で、今国許にいるのは主膳くらいであり、しかも職務にに励んで帰りが遅いことなろどから、源太郎が斬ろうとしている人物は主膳であると見抜きます。しかしこの企てを聞かされて、いささか過激であることから、与市が絡む話であると考えたのは、流石であると言えそうです。
ただし無理やり源太郎を連れ戻すと、武士としての面目が立たなくなってしまいます。武士とはなかなか厳しいもので、これは、武士の妻もまたしかりだったようです。しかし夫には生きて戻ってほしいと言われた新六は、ある策を思いついたようですが、それは一体何なのでしょうか。
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