まず前の分、多少文章を動かしていることをお断りしておきます。では続きに行きます。『麒麟がくる』で光秀が病気になるシーン、軍議や信長が鉄砲をぶっ放すシーンを挟んでということもあり、7分ほどがこれに割かれています。
個人的にはトータルで5分ほどにして、もう少し光秀を具合が悪そうに描き、弾を受けて信長が負傷するシーンなども、光秀が共に倒れてそのまま動けなくなるという設定もあり得たかと思います。この回は信長がやって来て、九鬼水軍や大和守護の話をするところももちろん出て来ますが、それ以上に光秀が帰館して、妻の煕子が夫の無事を祈って神頼みをし、さらにこの2人の出会いや、光秀が牢人だった頃の生活の思い出などの回想が登場するという流れになっています。
最終的に煕子はこの回で亡くなりますが、光秀の病気はそれを含めた、この回の夫婦の描写に大きく関わっており、その意味でも、もう少し彼の健康にスポットを当てた描き方でよかったのではないでしょうか。ただ光秀が戻って来た時、煕子が東案の所まで走るところ、さらに神頼みをしていて倒れ、駒が助けるのはやはりいつものパターンかなと思いましたが…。
さて今まで書いて来た分以外で、taketak39460607さんがスクショ付きのツイートで指摘している点をいくつかご紹介しておきます。
武田勝頼は強いとしつこい
これに対しても、重臣たちがそのまま残った状態で油断がならないのはその通りとあります。同感です。武者さんは、なぜ勝頼が強いと言われるのか、その意味をきちんと考えたことがあるのでしょうか。家康が寝込んでいる時、武田信玄は生きておると酒井忠次に言っていますが、それにも通じるものがありますね。
なお同じ個所に「『神の君』としつこいナレーション」などとありますが、これはそういう大河なのですけど。実際尊称は神君なのですから、別にこう言っても不自然ではないでしょう。この2つがしつこいと思うのは、最初からネガティブに捉えているため、耳障りに感じるからと思われます。
そして大岡弥四郎関係で、
いわば、生まれてきてから戦漬け。
それなのに「ずっと戦ばっかりで嫌だ!」という意味がわからないのです。
という部分がツイートで引用されており、これも、兵站や軍資金が徴収されて、民は疲弊して貧しくなり、主君が本領安堵しなければ成り立たないと説明されています。三河一向一揆にも通じるものがあります。
ところでこのツイートに添付されているスクショによると、武者さんの場合、このセリフに関して
しかも『浴びるほど酒飲んでいい女を抱きたい』とか言うもんだから、世の中を『平和にしたい』などという崇高な理想はあり得ない。忠義などなんだの馬鹿にしますが、ただの逆張りに思えてきます。
で、最初の方に「本作は『麒麟がくる』を逆になぞっていて腹立たしい」とあり、明らかに『麒麟がくる』を意識しているのが見て取れます。「世の中を『平和にしたい』などという崇高な理想」もそうでしょう。
しかしあのシーンの弥四郎のセリフを聞いていれば、納得が行かないでしょうか。上記の、民が疲弊するというのはもちろんのこと、ここで弥四郎は、徳川(+織田)と武田を見比べると武田の船に乗った方がいい、徳川では戦って死んで来いと言われ、その大義名分として忠義を持ち出されるが、いつ戦が終わるとも知れない、遅かれ早かれ死ぬのであれば、ほんのひと時でも欲にまみれる夢を見た方がマシじゃと言っています。
そのうえで「浴びるほど酒を飲んでいい女を抱きたい」とも言っているわけで、これはかなり現実を突いている発言と思われます。武者さんはあのセリフを聞いていたと思いますが、 それから何を読み取っていたのでしょうか。相変わらず『麒麟がくる』前提の見方しかやっていないのでしょうか。だから弥四郎の言葉の本質が読めていない。これでは、叩き棒にされる『麒麟がくる』も気の毒です。
それと「世の中を『平和にしたい』などという崇高な理想」は、弥四郎ではなく、この場合家康が考えるものではないかと思います。
そしてタイトルロゴも気に入らないようで、
考えてみれば、ロゴからして危険でした。
作り手が自分の個性を強く出そうとするエゴに満ちている。
などとあり、もちろんこれにも、史劇エンタメなのだから作り手が個性を出して製作するのは当たり前と、あっさり論破されています。それを言うのなら、武者さんが好きだという大河の大部分も、
「作り手が自分の個性を強く出そうとしている」
ところはあるのですが、それにはだんまりなのでしょうか。
どうもこの『どうする家康』が独自色を出すのが嫌で、自分が好きな、過去の戦国大河を見習えと言っているようにも取れます。 好きな大河がそう言われたら、恐らく向きになって反論するのかもしれません。
あともうひとつ。これはツイートでは引用されていませんが、スクショにありましたので。
井伊直政は美少年だの何だの言われていますが、脚本、演出、ヘアメイクのせいでせいで台無しになっています。『おんな城主 直虎』の後で、どうしてこうなった?
直虎と家康は、時代背景や舞台は重なるものの、別々の大河です。また板垣李光人さんと菅田将暉さんでは、キャラ設定も違って当然ではないでしょうか。 それも個人ならいざ知らず、報酬を貰ってコラムを書いているわけですから、自分が好きな方にばかり寄せるものでもないと思いますけどね。
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