第20回前半部分です。なお最近の投稿で、前回を第20回としていたので改めています。
それから5月31日の『歴史探偵』は徳川四天王で、大森南朋さんと山田裕貴さんがVTR出演、杉野遥亮さんと板垣李光人さんがスタジオ出演です。板垣さん、27日の『突撃!カネオくん』にも出演していましたね。
天正元(1573)年の岐阜城。信長と光秀は葡萄酒を酌み交わす。信玄が亡くなり、最早殿を脅かす者はいない、徳川様が武田に奪われた所領を取り返すと言う光秀。しかし信長はそれには懐疑的であり、息子の勝頼は恐るべき才があると答える。外では雷鳴が聞こえていた。
しかしその翌年の天正2年、武田軍は再び攻めに転じ、家康は失地回復どころかさらに領地を失うことになった。武田軍はすぐ近くまで来ており、高天神はもう持ちこたえられないと本田忠勝は言う。織田の援軍はまだ到着しなかった。その直後、高天神落城の知らせが来る。信玄は既に世を去っても、武田の勢いは衰えなかった。
そして天正3年。父と同じ濃い赤と白の衣に身を包んだ勝頼は、父の兜と衣を前に座り、穴山信君に戦の様子を尋ねる。つつがなく進んでいると信君。信玄の三回忌が終わり、勝頼は自分が思うことをやらせて貰うと、岡崎を取ることを宣言する。その岡崎では武田の命を受けた者たちが、連判状に署名そして捺印をしていた。
家康は書状をしたためていたが、顔がほてり、体調がすぐれなさそうだった。そこへ小久保忠世が鳥居元忠と現れ、勝頼の本軍が岡崎の近くの足助(あすけ)城へ向かっていると告げる。家康は自分が出ると言うが、総大将が浜松を不在にはできないと、忠世と元忠は止めようとする。また岡崎には石川数正も出向いていた。なおも押し切ろうとする家康だが、その場に倒れこんでしまう。
一方岡崎城では、信康が身支度をしていた。そんな夫に五徳は、総大将だから落ち着くようにと諭す。そして瀬名と亀姫もやって来る。ここが戦場になるのかと不安そうな亀姫だが、信康は勝頼への対抗意識をむき出しにする。五徳は、浜松の殿(家康)は病で伏せっておいでとかで、頼りにならぬと言い、亀姫は遠江のことでお忙しいとこの兄嫁に言い返す。
信康は五徳に、そなたの父上とてあれこれ命じられるばかりで、援軍はよこさず頼りにならぬと言い、五徳は父には天下人としての役目があると口論になる。侮辱なさるなら父上に伝えると言う五徳、その2人を瀬名は、我らが心を一つにする時ぞと戒める。そして信康には、殿が残してくれた忠義の家臣が大勢いる、一丸となればかなわぬ敵はおらぬと言い聞かせる。そのやり取りに五徳は不満そうだった。
信康は家臣たちに、足助城攻めを言い渡す。家臣たちのうち山田八蔵は先陣、大岡弥四郎は留守居役と決まった。その頃鈴を鳴らしながら、1人の歩き巫女がとある祠に向かい、一礼した後干し柿を供える。
負傷者が多く岡崎城に運びこまれ、瀬名も侍女たちに交じって手当をするが、その者は亡くなった。涙を流す亀姫に息のある者を助けよと言い、自分は八蔵の傷に膏薬を塗ってやる。そんな中、五徳だけは何もしようとしなかった。誰もそなたに命じられないのだから、進んで助けるように瀬名は言うが、このような汚い男どもに触れることなどできぬと五徳は答える。
汚いとは何事か、三河のために戦っている者たちであるぞ、そなたも三河の女子であろうと瀬名は声を荒げる。五徳は自分は織田信長の娘じゃ、無礼者と姑に言い、そのまま去って行く。戻って来た信康は不審がるが、何でもないと瀬名。戦の方は数正によれば、こちらの動きが読まれていたようで手痛くやられており、かくなるうえは籠城戦をと勧める。
不安そうな瀬名に弥四郎は、この城は古今の城の作りを学んだ自分が造営の限りを尽くしたもの、勝頼も城に寄り付くのは難しいと安心させるようなことを言う。そして浜松では、高熱を発して倒れた家康が咳込みながら伏せていた。そこへ酒井忠次が、勝頼軍が足助に入った模様と知らせに来る。
早ければ明日にも岡崎にと言う忠次に、こんな時に動けないとは情けないと家康。忠次は自分が代わりを務める故、体を休めるように進言し、岡崎には忠勝と榊原康政を送り込んでいた。ついでに、あの小僧もくっつけたと忠次は言う。井伊虎松のことだった。
さらに忠次は家康を励ますかのように、数正も七之助(平岩親吉)も、力自慢の山田八蔵、切れ者の大岡弥四郎もおります、岡崎が落ちることはありませぬと言うが、信玄の軍略知略を受け着いた勝頼という男を家康は恐れ、武田信玄は生きておるんじゃと口にする。
例の祠を弥四郎が訪れる。供えられた干し柿の下に敷かれた紙を手に取り、それに書かれた文字を見た弥四郎は、干し柿を口にしながら去って行く。岡崎城では瀬名が率先して汚れものの洗濯をし、侍女たちからこのようなことをなさらないようにと注意されていた。そこへ八蔵がやって来る。
何用じゃと聞かれて、何もと答えてその場を離れる八蔵だが、侍女たちは気味が悪い、お方様に膏薬を塗って貰って変な気を起こしたのではないかと、その様子を怪しんでいた。侍女たちは瀬名にその場を離れるよう促し、瀬名は寝所へ向かう。瀬名は何か考えつつも部屋に入り、亀姫に明日は戦になるかも知れぬ、よく寝ておくようにと言う。
父信玄から軍略知略、そして家臣たちを受け継いだ勝頼はやはり侮れませんでした。信長が懸念した通りの事態となり、徳川は失われた領地を奪い返すどころか、かえって攻め込まれてしまいます。大久保忠世が奮戦していたのは、犬居城の戦いですね。
しかも岡崎城の、頼れる家臣であるはずの者たちが、武田に寝返っているようです。その彼らは連判状に名を連ね、そして捺印をしていました。しかも信長は援軍をよこすはずなのに、なぜかよこそうとしません。そして高天神城が落ちてしまいます。家康は自ら岡崎に行こうとしますが、既に数正が向かっているうえに、総大将が浜松を離れるわけには行きませんでした。
その家康が熱を出して倒れてしまいます。そして忠次が家康の代わりに、忠勝、康政に加えて虎松を岡崎に送り込みます。何やら慌ただしい中での派遣です。しかも岡崎城では、信康と五徳がそれぞれの父親を巡って口論となり、瀬名に止められます。瀬名はこの城で、率先して女たちの陣頭指揮を執り、戦が始まってからは負傷者の手当まで行っていました。
そんな瀬名に、山田八蔵が何か言いたげにします。侍女たちは薄気味悪い、お方様自ら膏薬を塗ってあげたので、妙な気を起こしていると言いますが、瀬名は何かあるのではないかと気づいているようです。
そして五徳。負傷者の手当をするように姑の瀬名に言われた時の、三河の女子であろうというセリフは、かつて瀬名自身が於大に言われたものでした。しかし五徳は、あたかも自分の方が上であると言わんばかりに、姑を無礼者呼ばわりします。こうでもしないと彼女の立場がなかったのかもしれませんが、あの時あのセリフを吐くべきではなかったでしょうね。これが後々の信長への書状とつながって行きそうです。
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