高天神城について、再度。
織田・徳川と武田の戦いに於いて、重要なキーワードの1つと思われるこの「高天神城」。最初にこの城を巡って戦いが行われたのは、『どうする家康』第18回に描かれている信玄の西上作戦の時でした。この時の城主は小笠原信興(氏助、長忠)で、武田とにらみ合いになるものの、元亀3(1572)年10月21日までに降伏したと伝わっています。元々は今川氏真に仕えていたこの小笠原家ですが、今川没落後は徳川に臣従します。しかしこの時信興は一旦武田に下ることになります。
ただその後は再び徳川に仕えるようになります。そして天正2(1574)年、信玄は既に亡く、子の勝頼が2万以上と言われる大軍を率いて、再び高天神城を攻めます。この時信興は徳川に援軍を要請するものの、家康は自軍だけでは守れないと悟り、信長に援軍を要請します。しかし信長軍は石山本願寺との戦で手一杯で、とても援軍を差し向けられる状態ではありませんでした。
結局信興は籠城せざるを得なくなりますが、その間廓(曲輪)を次々と落とされ、信興は武田側の条件を飲んで降伏します。その後信長は高天神城へ向かうものの、既に降伏した後でした。そしてその後も信興は高天神城を安堵されます。しかしその後長篠の戦い(長篠設楽原の戦い)が起こり、勝頼は徳川に対してのぼ防衛拠点としての高天神城の守りを固め、信興は駿河に転封となります。
代わりに城主となったのは、かつて今川に仕えており、その後武田家の家臣となった岡部元信でした。そして天正9(1581)年、家康はこの高天神城を包囲します。そして元信は勝頼に援軍を要請しますが、結局援軍は来ませんでした。これにはその当時の大名間の同盟関係が、影響していたとされています。
しかもこれに至るまでの家康の準備が、また周到でした。家康はまず周囲の城を陥落させ、そして高天神城を取り囲むように砦を作ります。さらに横須賀城を築き、これによって籠城中の高天神城への補給路を断ち、高天神城をいわば干上がらせたわけです。これに実際に携わったのは、榊原康政の舅に当たる大須賀康高です。
しかも元信からは降伏を願い出ていたものの、信長は家康に、降伏させてはならないと指示しています。高天神城を見捨てたことによって、勝頼の面子は丸つぶれとなり、そうすれば今後駿河にも攻め入ることができると読んだようです。また降伏を受け入れるか否かは、徳川の一存に任されたとなっています。
尚最終的に元信が討って出た時、この人物と最初に刃を交えたのは、大久保忠世の弟の忠教(彦左衛門)であったと言われています。また武田軍が攻め入った際の戦後処理は寛大なものでしたが、この戦の後信長は、主だった岡部家臣はすべて処刑しています。
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