検証その2です。
まずここの文章ですが、一応文章としての意味は成しています。
『麒麟がくる』でも、織田信長は遺体損壊をしていました。
生首を箱に詰めていた場面は衝撃的。
あの場面では信長の両親が驚き、怒り、嫌悪感を見せていたものです。
遺体損壊が悪いのではなく、それをクールだと演出して喜んでいることが悪辣なのです。
ただ改めてこのシーンを観たところ、
「遺体損壊(相手の首を取ること)が悪いのではなく、クールだと演出していることが悪辣」
なのではありません。
この時信長は松平広忠、つまり元康の父の首を取って父へのいわば贈り物にしています。しかしそのようなことをしては、今度は今川が竹千代を取り返しに来ることになり、織田が危なくなってしまうわけで、その辺の考えの浅さを信秀は怒っていたのです。
しかも土田御前のセリフでは「箱」となっていますが、どう見ても首桶ですね。あるいは首桶を箱と呼ぶ習慣があったのでしょうか。
そしてこの記述ですが、
今週は最後にとってつけたような残虐描写がありましたが、どうせ作り物だと何の衝撃もありませんでした。
「今週」とあるからには第3回と思われますが、これに該当するのは、三河衆の妻たちが今川の兵に斬られるシーンです。しかし、どこが「作り物」なのでしょうか。
確かに当時の日本は火縄銃の普及が急速に進みました。国衆クラスで持っていてもおかしくないかもしれません。
とはいえ、物流、資産、そして才能もそこには加味されます。
雑魚っぽい国衆が火縄銃をバンバン撃っていたら、なにやら引っかかる視聴者がいても不思議ではないでしょう。
先日も書きましたが、
「とはいえ、物流、資産、そして才能もそこには加味されます」
が何か取って付けた感があります。というかこの文章、ひいてはその前後の記述の、何か否定的な意味合いに違和感を覚えるわけです。この場合恐らくは松平昌久と思われますが(武者さんははっきり書いていませんが、多分そうでしょう)、雑魚か否かはともかく、火縄銃がそこそこ揃っていて、ちゃんと相手を狙えているわけですよね。
国衆の鉄砲について述べたいのであれば、こういう書き方をせず、
火縄銃を買うお金
それを本拠地まで持って来られる流通経路
才能と言うか、撃ち方を学んで、それをちゃんと戦場で実践できる能力
この3つが揃っていれば、国衆といえども鉄砲を持っていておかしくはないし、事実そういう時代に入りつつあったとでも書いた方がよかったのではないでしょうか。
そして今回――織田信長が水野信元を脅すために火縄銃を撃ちました。
しかも再装填の手間など無かったかのような連射。
現代の銃器とは扱いが異なりますし、そうだとしてもあんなふうに安っぽく銃器は使うものではありません。
なぜ信長の連射が可能であるのか。それは、こうして信長のそばに3人家来がいて、新しい銃に弾を装填し、火縄に火をつけて待機しているからなのですね。
『麒麟がくる』では、足利義輝殺害に怒った明智光秀が、松永久秀に火縄銃を向ける場面がありました。
あのシーンを思い出すと、本作はなんという薄っぺらさなのか。
「あのシーンを思い出すと、本作はなんという薄っぺらさなのか」
何やら意味がわかりませんね。この↑シーンのことでしょうが、時代は同じであるものの、主人公も設定もまるで違う2つの大河を単純比較できないでしょう。両方に似たようなシーン(たとえば同じ合戦を描いているなど)があって、その描かれ方の違いを比較するのであればまだ納得できますが。そして本作のどういう部分が薄っぺらなのでしょうか。
と言うかこの回、義輝暗殺シーンとか、光秀の一乗寺への瞬間移動的なシーンはやはり疑問でした。
歴史系ライターだ大河コラムだと言うのであれば、たとえばこの『麒麟がくる』の菊丸の、三河人ならではの苦労、
そして『どうする家康』のこの、三河の百姓たちが今川の支配から抜け出せたと思っているシーン、
この2つを比較して、天文年間と永禄年間の違い、農民と武士の違いなどを論じるのであればまだ納得が行くのですが。
ところでこれも以前書いていますが、武者さんは特に今年は、あらすじをきちんと書いていません。今までも主観入りまくりなところはかなりありましたが、一応あらすじらしきものは書かれていました。特に第3回の、水野信元が話を持ってくるとか、於大が家族など捨てろと言うシーンなどは、好きな大河だったらほめているでしょう。しかし、自分が嫌いな大河にそういう描写が出て来るのは、やはり面白くないのでしょうか。無論第2回もきちんとしたあらすじらしきものはなく、どころか大樹寺のシーンは「悟りを開いた」のみ、岡崎城入りに至っては無視と言ってもいいものでした。
(画像はそれぞれの作品の録画映像より)
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