『武将ジャパン』大河コラムに関して、コメントをいただいていますのでそのご紹介です。
先日投稿した
「『鎌倉殿の13人』に関しての武将ジャパンの記事について思うこと 82その2」
の、通し番号10の引用部分からです。
10.そしてもうひとつ。義時には思想がない。
空っぽゆえに歴史上、果たすべき役割が入り込んでくる。ゆえに本人は空洞
これに関して私はこう書いています。
思想がないからこそ、ここまであれこれと策を弄することができたのでしょう。無論まだ思想も学問も不在ではありましたが、義時が体を張って世の中を安定させた後に、嫡子泰時がその部分を埋めることになったとも言えます。
実はこの引用部分なのですが、原文ではこのようになっています。
昨年の『青天を衝け』が、儒教の孟子から「仁者無敵」を掲げるなら、今年はさしずめ老子の「天地不仁」からこう言いたくもなります。
天地は仁ならず、万物を持って芻狗(すうく)と為す。『老子』
【意訳】仁ある者に敵はないっていうけど、そもそも天地に仁なんてないんだよなァ〜〜残念でした!
この芻狗(すうく)とは、儀式で使う藁でできた犬人形なのですが……頼朝が死んだあと、義時はこの藁人形になってしまったと思えます。
(中略)
そしてもうひとつ。義時には思想がない。
空っぽゆえに歴史上、果たすべき役割が入り込んでくる。ゆえに本人は空洞。
このようにあるのですが、いただいたコメントではこの部分に関して、
小檜山氏の文章を全体として把握すれば、義時には仁や慈しみの心などの思想性はない。空っぽだ、用済み後の人物を無慈悲に棄てると言いたいようである さらに小檜山氏は『老子』を紹介した直後に「この芻狗(すうく)とは、儀式で使う藁でできた犬人形なのですが……頼朝が死んだあと、義時はこの藁人形になってしまったと思えます。義時は不気味です。空っぽです。」と述べ、「藁人形だから空っぽだ!」と言いたいようでもある しかし『老子』の趣旨は、仁や慈悲などの観念を持たず「空っぽ」なのは「天地」であり、その天地が「万物」を「芻狗」のように弄んでいる。義時を、用済みになった芻狗を棄てる「天地」に例えるのならともかく、空っぽの藁の犬に例えてしまっては、義時が棄てられて生き残れない側になってしまう (小檜山氏はこの大河コラムの筆者武者震之助さんのこと)
このように指摘されています。
私も引用した時点では、義時が空っぽという点にのみ目が向いており、それを泰時が埋めることになると書いていましたが、実際コメントにあるように、この場合の義時は寧ろ「天地」という棄てる方の存在に相当し、それを芻狗に例えてしまうのは、このドラマに於ける義時の設定から考えて、ちょっと考えられないでしょう。
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