『
花燃ゆ-34 続き 描かれない細かな部分 』で、『八重の桜』を引き合いに出していますが、やはり『花燃ゆ』の場合、家族との関係や松陰の門下生との交流など、もっときちんと設定されるべきだったでしょう。それがないから美和(文)の居場所もなくなり、お握りを作る、夫のいる所まで押し掛けて行く、あるいは楫取(伊之助)と会っているといったシーンを入れないと、主人公の存在意義がなくなるわけです。しかし、なぜこれを松陰と高杉の物語にしなかったのかなと思います。いくら女性主人公の年だからと言って、史料がごくわずかな人を持って来るより、例外的であっても男性の主人公にした方が反響があったでしょう。なぜ杉文、後の楫取美和子にこだわったのかが不思議です。
最近の大河は、第1回で主人公の幼少期を描き、第2回から本来の主役の俳優さんを出すようにしています。『平清盛』はわかりませんが、『龍馬伝』、『八重の桜』、『軍師官兵衛』、そして『花燃ゆ』すべてそうです-確か『江』は、子役なしで主演の上野樹里さんが幼少期の江を演じて、それが問題視されたと言われています。第1回は主に、兄弟姉妹や友達と遊びまわる、あるいは本を隠れて読むなどといったシーンが多く盛り込まれていて、その後の主人公の人生をそれとなく窺わせるようになっています。この点では、どの大河もさほど違いがないわけですが、いってみればこの第1回は紹介のようなものですから、第2回以降をどう描くかが大事になって来ます。
『八重の桜』の場合、主人公は如何にも男勝りのやんちゃな女の子で、しかも鉄砲撃ちの真似事をしていて、手習いの教室でもお手本通りに書かず、鉄砲の絵だの、「引金」だの書いていて先生を呆れさせます。果ては藩総出での軍事教練の際に、登っていた木から草履を落としてしまい、それが元で家老の西郷頼母から兄共々叱責され、藩主松平容保のとりなしでどうにか納まり、その後の伏線となって行きます。美和の場合も当初は論語好き、本好き少女のイメージがあったのですが、なぜかその路線が継承されず、しかも松陰の妹というより、松下村塾の女理事長的な位置づけになってしまいます。八重が山本家の娘、覚馬の妹という位置づけがあるのに比べると、美和は家族の中での立ち位置がどこか曖昧に感じられます。
また八重の場合は、どうしても鉄砲をやりたいと江戸から戻ってきた覚馬に頼み、兄にしごかれつつ鉄砲術を極め、夫となる川崎尚之助の鉄砲の開発を手助けするという点で、一本筋が通っているのですが、美和の場合それがありません。彼女の場合は松下村塾がなくなったことで、自分の立ち位置がなくなってしまったともいえますが、それでも久坂玄瑞の妻であり、かつては本大好き少女だったという設定を維持して行けば、あまりぶれることなしに持って行けたはずですし、奥に入るのを前倒しにする必要もなかったでしょう。奥女中編ではキャリアウーマン云々という触れ込みがありましたが、これなら、兄に叱られながらも自らの目標を極める八重の方が、よほど「キャリアウーマン」に見えてしまいます。
ところで『八重の桜』の第2回、佐久間象山の塾で飼っていた豚が逃げ出して、塾生たちが捕まえるのに右往左往するところがあります。そこへマント?を着た男が登場して、一気に豚たちを捕まえてしまうのですが、それが何と西郷吉之助であるわけです。そもそもの原因は、豚をスケッチしていた上州安中藩士の子、新島七五三太(しめた、後の新島襄)にあったのですが、このシーンはいくらなんでも創作でしょう。でもこういう創作なら、たまにあってもいいかと思います。しかし西郷どんが、この時代に豚を見てうまそうだなどと言う辺りは、流石に薩摩の人です。その後象山が下田踏海の連座で松代に蟄居させられ、塾生たちが去って行って、覚馬と尚之助、そして勝麟太郎が、俺たちこれからどうする?と話し込み、最終的に覚馬と尚之助は勝の塾に入ることになるのですが、こういう男だけがしみじみ語るシーンは、『花燃ゆ』にはあまり登場しません。こういうのも大河らしくていいものなのですが。
余談ながら七五三太君、絵はうまいです。いきなりパペットホームズに飛びますが、「赤毛クラブの冒険」中の、ダンカン・ロスの動物スケッチを彷彿させます。
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