『武将ジャパン』大河コラム、前半部分に関する記述への疑問点です。
鎌倉殿の13人感想あらすじレビュー第38回「時を継ぐ者」 - BUSHOO!JAPAN
1.鎌倉殿が起請文を書いてくれない。
時政がそう説明しても、んなもんちゃっちゃと書いちまえ、と義盛が雑に対処しようとする。
それでも断る源実朝の方が、ことの重大性を理解していますね。
些細なことですが、
「んなもんちゃっちゃと書いちまえ」
ではなく
「書いちゃいなさい!」
で、義盛のテンションがいちじるしく上がりまくった状態です。 あるいは実朝が何度か和田館で過ごしたことから、自分の忠告を聞いてくれると思っているのかも知れません。
2.そんな父の様子に耐えかねたのが息子の北条泰時です。このようなことをさせるわけにはいかないと言い出す。泰時は母である八重にも似てきましたね。
これだと今の義時に似て来て、しかも八重にも似て来たように取れるのですが…若い時の、まだ世渡りを知る以前の義時に似て来た、その一方で、八重にも似て来たという意味でしょうね。
それからりくに京へ行くように勧める時政ですが、
3.「しい様は?」
「ここに残る」
そう言われ、りくは京都行きを断りました。
彼女の真意がどうにもわからない。坂東なんて嫌々来ていて、できれば立派な夫と凱旋するように京都へ戻りたかったのでは?
たとえそれが叶わぬ夢となっても、坂東で死ぬより京都に戻る方が良いのでは?
4.自分でも止められない。京都に戻るよりも、夫と別れない方が大事。
(中略)
「ほとぼりが冷めれば、また会える日も来る。平六、あとは頼んだ」
「りく殿のことはお任せください」
こうして、りくを逃す算段が整えられてゆきます。
時政に諭されたりくに対し、義村が着替えを渡し、廊下で待っていることを告げると、彼女もキッパリと告げます。
「京へは参りません!」
彼女は一体何を考えているんだ?
まず、時政といられなくなると言うのが理由のひとつ。今のこの状態では、「時政と共に」京へ戻るのはまず不可能です。結局彼女も、時政がいない人生などさほどの意味もないと考えてはいるのでしょう。そして京にいればいたで、我が身も危うくなることを察したとも考えられます。この時畳の上に、如何にも公家の女性的に座っているりくが、このようなことを口にする意外性が垣間見えます。
あと義村が「着替えを渡し」とありますが、着替えではなく、落ち延びるための変装用の衣服ですね 。
5.「羽林」は近衛府の唐名(とうみょう・中国風の呼び名)であり、ここで注目したいのは、まだ幼いにも関わらず父や兄よりスピード感のある昇進しているころでしょう。
「スピード感のある昇進しているころ」は、「スピード感のある昇進をしていること」でしょうか。これに関しては、実朝を手中に収めておきたい朝廷の思惑も、多分にあることでしょう。
6.妻に振り回され、執権の立場を失った――時政は不幸なようでいて、これだけ愛されているのならば、本望でしょう。
まあこれはあらすじと感想で何度か書いていますが、この2人は夫婦としては円満なのだろうと思います。ただ、本来首を突っ込むべきでないことに首を突っ込んだため、このような結果になってしまいました。そして振り回されたと言うより、時政自身もその計画に乗った部分はあります。
7.泰時はあの調子ですから、自分も将来、我が子に愛想を尽かされてこうなるかもしれない。そんな緊張感があります。
権力と引き換えにして、彼らは普通の父と子であることを失ってしまったのです。
鎌倉幕府と言う、その当時は前代未聞の武家政権を作り、その中枢に入り込んだため、ある意味運命を狂わされたと言うべきでしょう。ただ、泰時の場合はまたどうなるかわかりません。
8.こんな人物は二人といない、無双の説得力――小池栄子さんが毎週、高みへ登っていきます。
美しいのに清らかで荘厳。人ではないような、特別な魅力があるんですよね。
ちょっと長くなりますが、少し前の『ちむどんどん』関連投稿で、小檜山氏のnote記事からこの部分をご紹介しています。
「そしてここで多江が、ここにいない房子に会うように促します。思えば三郎と色々あった、そんな相手を多江は気遣っている。なんか多江をかわいそうだのなんだの言っていた界隈も知っておりますが、何が幸せでそうでないか決めるのはあなたたちではないでしょう」
これに対して私はこう書いています。
「しかし何よりも、ここでどうかと思うのは
『何が幸せでそうでないか決めるのはあなたたちではないでしょう」
この書き方は如何なものでしょうか。『かわいそうだのなんだの言っていた界隈』はいくらか察しがつきますが、何もここまで上から目線の書き方をしなくてもよさそうなものです」
武者さんも何かにつけて政子をほめまくるー一番ほめまくりやすいキャラであるとは思いますーわけですが、ここも武者さん=小檜山氏の言葉を借りれば
「政子に特別な魅力があるかないか決めるのはあなたではないでしょう」
となってしまいます。しかも武者さんは前出の、多江についてあれこれ語っていた一般の視聴者ではなく、有料記事を書く「レビュアー」なのです一応。なのにこのコラム、主観による文章が多いのですね。
9.仁田忠常もそうして自害していたように、当時は江戸時代のように作法は決まっていません。頸動脈の方が、切腹より合理的です。
「江戸時代のようではない」と言うのは、一頃武者さんが使っていた「原始的」と同義と言えなくもありません。切腹というのは鎌倉末期、あるいは室町初期に端を発するとも言われており(『太平記』に登場するため)、この当時まだ切腹という概念も、無論その作法もなかったと考えられます。 その後は切腹による苦痛を和らげるために、介錯人が登場するようになります。
そして初が泰時を諫めるシーン、これからまた漢籍関連から東洋の賢妻の話になり、
「東洋の賢妻とは、夫を厳しく諌めることが模範とされます。『貞観政要』の唐太宗の妻である長孫皇后が典型例です」と書かれているその後に、こう書かれています。
10.ただし、時代によって理想の女性像は変わり、女子マネージャーとか、夜のお店にいそうなお姉さんとか、女性アナウンサーとか、専業主婦などなど、そういう像が反映されるのもドラマです。
それゆえ大河ドラマのヒロイン像も、本来の古典的賢婦からウケを重視して変えられます。
「模範とされる女性像」の後に、映像作品の「理想の女性像」を持って来ているのは、何か唐突感がありますね。しかもこれらの像がドラマに反映されていると書くのなら、具体的にどのようなドラマなのかを挙げてほしいです。そして
「それゆえ大河ドラマのヒロイン像も、本来の古典的賢婦からウケを重視して変えられます」
とあり、
11.謎の味噌汁やおにぎりを振る舞うと、問題解決してしまう、など。史実では夫をやりこめるような逸話が美談として残されている女性でも、かなり甘ったるく、現代人向けにされることがありました。
とあり、嫌いな大河のヒロインが甘ったるい存在として紹介されています。しかし、まつの味噌汁は問題解決手段ですが、文のおにぎりにはそういう効果はなかったと思います。 それと「夫をやりこめるような逸話」が甘ったるく現代人向けにされるとありますが、寧ろ「夫をやりこめる」方が、ある意味現代的ではないかと思います。
12.今年はそういう女性像ではなく、古典回帰をしているところが斬新。
初がにっこり笑った顔を思い出せない、見た記憶がない、しかし、とても魅力的で優しくて、なくてはならない妻だということがわかる――非常に高度な描き方ではないでしょうか。
微笑むことは多くの人ができる。愛想笑いなんてものもある。
けれども、諫言はちがう。お愛想で諫言できる奴はいない。
それを初はできる。これぞ賢婦、父の義村が言う通り、凄まじくいい女です。
「今年は違う」「非常に高度な描き方」。推しのドラマの場合はすべてこうですね。私から見れば、今年のもかなり現代風にアレンジされていると思われる部分があるし(それはそれで三谷さんらしくはあります)、古典回帰も何も、義村の娘だから初はああいうキャラ設定になっているのではないでしょうか。
また「それを初はできる」と書かれていますが、この文脈から見ると、初は「お愛想で諫言できる」人物という意味に取れるのですが…。
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