第38回「時を継ぐ者」後半部分です。この「時」、世代という意味と北条氏の通字「時」を掛けたものなのでしょう。
時政の処分は軽くしてくれ、手荒な真似はされなかった、自分は全てを忘れようと実朝は義時に頭を下げる。広元は謀反人とされた景時、能員、重忠の例を挙げ、時政がなぜ許されるのか異論を唱える者も出て来ると言うが、康信は鎌倉殿のご意向を無視するわけには行かぬ、行政は厳罰に処して流罪をとそれぞれの意見を述べる。義時は広元に裁決を委ねることにした。康信は伊豆へ戻ることを提案し、行政に手ぬるいと一喝されるものの、時政が伊豆で頼朝を助けたから今の鎌倉があると主張する。義時は彼らに礼を述べ、時政は伊豆へ戻ることとなった。また、りくも共に伊豆へ送られることになる。
時政は言う。
「あれ(りく)がいればわしはそれだけでいい、よう骨を折ってくれたな」
義時は、私は首を刎ねられてもやむなしと思っていた、感謝するなら鎌倉殿や文官にと言い、さらに自分は無念である、父上にはこの先もずっとそばにいてほしかった、頼朝が作った鎌倉を、一緒に守って行きたかったと打ち明ける。義時は涙を流しつつ、父上の背中を見てここまでやって来たと言葉を詰まらせ、時政はその息子にもういいと声をかける。
さらに義時はこれが今生の別れであり、父の死に目に会えない、手を握ってあげられない、あなたがその機会を奪った、お恨み申し上げますと口にする。しかし鳥の声を耳にした時政は、急にウグイスだと話題を変え、ホーホケキョと鳴くのはオスで、メスを口説くときに鳴く。普段はジャッジャッ、ありゃウグイスだ間違いないと言い、義時は涙にぬれた顔を伏せる。そして元久2(1205)年閏7月20日、初代執権北条時政は鎌倉を去ることになる。時政は2度と戻ることはなかった。
政子は実衣とりくに挨拶に行く。実衣はいつもの調子で、あの人のみすぼらしい姿は見たくないと言うが、りくはどんなに惨めかわざわざ見に来るなど、下品にもほどがあるとずけずけと言う。そして館から届けさせた衣装で着飾った姿を見せ、ご期待に沿えなくて残念と皮肉を言う。そのりくに政子は、義母上がそばにいてくれて父はとても幸せだったと思うと言うが、りくはまるで時政が死んだみたいだと不機嫌そうだった。
実衣は父は義母上と出会って変わったと言い、10は若返ったと政子。実衣は、前はしなびた芋みたいだったと言い、言い過ぎだと政子に言われる。しかしりくは、私の話をしているようでも結局はあの人のことばかりとやはり不機嫌そうで、こう口にする。
「北条に嫁いでいい思い出なんかひとつもないわ」
政子はそれは言い過ぎだと思いますよと答え、かつて政子が身籠っていた頃、男児を産もうと必死に険しい顔をした際、義母上は笑っていたと実衣が指摘するが、だってあなたが面白い顔するからとりくは返す。また伊豆山権現に匿われた思い出の中で、りくは妊娠していて全く掃除をしようとしなかったが、若い小僧との話ははずんでいたとこれまた実衣が言う。その時の小僧を、伊豆に戻ったら訪ねてみてはと政子は言い。りくも乗り気になるが、実衣は仁王像のようになっていないかなどと言い、一同は笑う。
そしてりくはお世話になりましたと頭を下げ、2人は出て行く。その後侍女になりすましたトウが食事を持って現れ、隠し持った刀を手に取ろうとしたところのえが現れ、北条の人々とうまくやって行く秘訣を知りたいと言う。りくは無理やり馴染もうとしないこと、誇りに思うことを挙げ、私は北条に嫁いだことを誇りに思っていると言う。のえが去った後トウは再び刀を抜くが、今度は義村が入って来る。会いに行くと言う義村に来なくていいとりく、しかし貴女は借りがあると言い、りくのそばに寄りざまトウの手をつかみ、何者だと叫ぶ。
トウは逃げ出し、義村は庭に出て彼女を取り押さえようとする。しかしトウは落とした刀を何とか拾い、再び襲い掛かろうとするが義村に羽交い絞めにされ、義村はこう言う。
「俺の女になれ」
伊豆へ発つ日。時政は寂しげだが、りくは都でなければ伊豆であろうが鎌倉であろうが同じだと言い、私を殺そうとしたでしょうと義時に直言する。そして安心なさい、私はもうあなたの御父上をたきつけたりしないわと口にしつつも、もう少しでてっぺんに立てたのに、私の中の火はまだ消えていないと言う。さらに、このまま坂東のど田舎の真ん中で朽ち果てるなんてまっぴらごめんとまで言い、あらやだ、こんな品のない言葉使ったことなかったのにと我に返るりくに、あなたはとっくに坂東の女子だと義時は言う。
りくは義時に、執権を継がなかったそうですねと尋ねる。そして意気地がないのねこの親子は、手の届く所に大きな力があるなら奪い取りなさい、何に遠慮しているのかと言い、さらにあなたはそこに立つべきお人、これは義母からのはなむけであると言った後、はなむけは送る側からするものでしたねと笑う。義時は父上と義母上からの思い、私が引き継ぎます、これは息子からのはなむけですと答える。その後執権となった義時は京の御家人たちに命令を出し、平賀朝雅を殺めることにする。
朝雅誅殺は、実朝になり代わり、鎌倉殿の座を奪おうとした罪によるものだった。北条政範に毒を盛り、畠山重保に罪をなすりつけた、それがなければ畠山は滅亡せず、我が父も鎌倉を去らずに済んだと義時。京に送られた下文に、藤原兼子は断りもなしにそのような命令をと訝しむが、朝雅の主は実朝であり、自分ではないと後鳥羽上皇は答える。やがて朝雅は、鎌倉殿になろうと思ったことなど一度もないと弁明するが、結局討ち取られる。鎌倉は怖いと中原親能、そしてきくに逃げるように言う。
読経をする慈円の背後で兼子は、京で大軍勢が動いたのは、義経が木曽義仲を追い払って以来のこと、鎌倉殿にこれ以上勝手な真似はさせられないと言うが、上皇は実朝の考えとは思えずにいた。そして慈円が、北条時政が執権の差を追われたことを伝える。つまり跡を継いだ義時がこの件の張本人だった。その義時は御家人たちの前で、政を取り仕切ると宣言するが、これには御家人からの反発もあり、義村は己の欲のために父親を追放したのかと問いただす。
義時は時政になり代わり、この鎌倉を守ると義時。すると義村は、義時以外に御家人の筆頭になれる男を自分は知らないと言い、義時も、私利私欲のためでないと強調する。しかし上皇は、義時に反感を覚えるようになっていた。
前半部分の時政の重厚さとはうって変わり、後半は何やら慌ただしげです。事件の後始末とそれに絡んでの騒動といった感じでもありますが、義時が実父である時政に別れを告げるのに比べると、りくと政子、そして実衣は血のつながりがないせいもあり、また年齢的に近いこともあるのか、そこまでの重みは感じさせず、雑談といった感じです。
前半部分で、りくが畳の上に座っているシーンがありましたが、今度は袿の下に緋袴をつけており、この2つの様子からして都の女性といった雰囲気があります。しかしこのりく、いよいよ伊豆に発つ時になって、やはり京の方がいいなどと洩らし、貴女は坂東の女子だと義時に言われてしまいます。時政を焚き付けたことへの皮肉でしょうか。これに対してりくは、執権を継ごうとしない義時の、背中を押すようなことを言っています。
そしてこのシーンの少し前に彼女は、義時に、自分を殺そうとしたことを単刀直入に切り出します。実際トウを使ってりくを殺めようとしていましたが、邪魔が入ってうまく行かず、しかも義村に正体を見破られ、庭で一対一の戦いに出るものの羽交い絞めにされ、自分の女になるように言われます。義時に比べてはるかに女あしらいがうまい義村ですが、この先トウをどう使うのでしょうか。
しかしこの騒ぎ、何やら偶然と言うにはでき過ぎなこと、のえや義村という、義時に近い人物がトウの動きを封じたこと、義時の性格や物の考え方などを思うと、義村と義時が組んで一芝居打ったようにも見えます。これは終盤の、執権就任の際の言葉にも似たものが感じられます。
そしてウグイス。ホーホケキョは縄張り宣言のための鳴き声のようですね。時政が突然話題を変えたのは、これ以上息子の話に付き合っていられないと踏んだからでしょうか。しかし時政はりくを思っていたようですし、何度か書いていますが、実際普通の夫婦であったのなら、それはそれでうまく行っていたでしょう。ただいささか余計なことを、しかも情にほだされてやってしまった感があります。
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