第36回「武士の鑑」後半部分です。
義時は行きかけて「しょんべんちびった」と言い、驚いた泰時がすぐに着替えを取りに行こうとするが、これは義時の冗談だった。
重忠は敵軍に義盛がいないのを見て、嚆矢を放つ。重忠が攻め入るのを実朝は懸念し、三善康信は数の違いに言及する。しかし八田知家は普通なら重忠の負けだが、御家人たちが畠山の潔白を信じ始め、身が入らずどう転ぶかわからないと言う。戦場では畠山軍が、和田の部隊が離れた所から自軍を攻撃していたのを目撃し、和田の兵に攻撃を仕掛ける。なぜわかったと義盛。
義時軍は正面から来る重忠を見て、守りを固めるように言う。そのため重忠は義時軍の背後に回り、泰時は太刀を抜いて応戦しようとするが、その重忠の後ろには義時がいた。2人は相まみえ、義時は刀身をへしおられたものの、今度は兜を捨てて再び重忠と争う構えを見せ、重忠も兜を脱ぎ捨ててこれに応じる。そして義時は馬上から重忠に飛びつき、2人とも地面に転げ落ちた。
歩兵たちがやってくるが、義村は誰も手を出したはならぬと制し、両者は短刀を抜いて応戦し合う。ついに両者は殴る蹴るの応酬となり、義時は何とか落ちていた短刀を拾い上げるものの重忠に奪われる。そして重忠は義時を仕留めたのか、ふらつきながら馬に乗り、その場を去った。
戦は夕方には終わり、時政は実朝に無事重忠の謀反を静めたと報告する。重忠はその後手負いのところを愛好季隆が射止めており、首が間もなく届くと時房が伝える。首を持ち帰ったのは義時で、重忠は逃げず、所領に戻って兵を集めることもしなかった。逃げるいわれ、戦ういわれがなかったからだと言い、ただ己の誇りを守ることのみに徹したと言うが、時政は面白くなさそうだった。その時政に義時は首実検を要求し、執権を続けて行くのであれば首を見るべきだと言い放つ。
大江広元も時政の強引さを批判し、御家人の間にも、重忠の無実を信じる空気が漂い始めていた。広元は誰かに罪を押し付けることを勧め、重成がその罪を被ることになった。時政は気乗りがしなかったが、最終的にはそれを受け入れ、重成は捕縛される。これは義時の策で、こうすることで御家人を時政から遠ざけようとしたのである。そして後始末は、自分で勝手に動き回った罰として義村にやらせることになった。
義村は時政の命令だと言って、重成の首を刎ねる。りくはこれで仇討ちができた、後は重成の分も長生きしていただくと夫に寄り添う。そして、これで畠山の所領は北条のものと言うりくに、時政は武功のあった者に分け与えるべき、皆の喜ぶ顔を見ていると心が和むと言うが、りくは不満げだった。一方義時は、所領の分配は政子に任せるという大胆な句を打ち出す。それでは政が混乱すると言う政子に、既に混乱の極みであると義時は言い、さらに重成の死に触れた政子に、命じたのは執権殿ですと義時は答える。
なぜ止めなかったのかと問う政子に、義時は、自分がそうするように勧めたからだと答える。重成は時政に退いて貰うための捨て石だった。恐ろしい人になったと政子は驚くが、すべて頼朝に教えて貰ったことだと義時は言う。父を殺すのではないかと政子は懸念するものの、義時は今の自分があるのは父のおかげだと言う義時。次の執権に就任するのかと訊かれ、自分が就任しては、そのために父を追いやったようでまずいと政子の就任を促す。
政子の執権職は、実朝が十分に成長するまでの限定的なものだった。政子も実朝には頼家の二の舞をさせたくはなかった。一方実衣は反発し、実朝に政治的実権を持たせないための策だと、実朝の前であるにも関わらず平然と言い放った。しかし実朝はこの討伐に責任を感じており、政子に一任することになった。一方で時政に関する訴状への署名は、かつての景時のそれをはるかに上回っており、いささかやり過ぎの感があった。
時政も自分が嵌められたことに気づくが、義時はこれはなかったことにすると言い、その場は何とか切り抜けるが、時政には御家人が反発するから、あまり前にに出るなと諫める。また恩賞の沙汰にしても、自分のまいた種と考えてくれと言い、時政は哄笑してやりおったなと言う。その後政子から恩賞が与えられるが、りくに取っては元々の執権である夫を差し置いてのこの行動が、如何にも面白くなかった。
まず「しょんべんちびった」などと言わせるのが、如何にも三谷さんらしくはあります。緊張をほぐす狙いもあったのでしょうが、戦場慣れしていない泰時は、かなり神経質になっているようです。そして和田義盛、自分たちだけあそこにいても、当然気づかれますね。
無論この当時の戦としては、このようなものでしょう。しかしどうも戦国大河の合戦のイメージを基準にすると、何だか陣形がばらけているようにしか見えないし、歩兵も足軽のように整然としておらず、正に武家政権の原初期の戦の一つの形ではあります。戦国期は戦が日常化することで、如何に効率よく戦うかが求められたことでかなりの変化を見せ、無論逃げること、撤退することもまた将の採るべきひとつの方法でした。あとこの頃の薙刀は刃が短く、これより後になるにつれて長くなり、さらにその後は槍が主な武器となって行きます。
義時と重忠、最初は騎馬で、中世ヨーロッパの馬上槍試合(トーナメント)と思われるような応戦、そしてその後は義時が相手を引きずり降ろしての乱闘。何やら喧嘩に毛が生えたようにも見えますが、それはさておき、短刀の取り合いに勝ったかに見える重忠は、そのまま馬に乗ってその場を後にしますが、生き残ったのは義時でした。重忠は愛甲季隆に討ち取られ、その首を持参した義時は、重忠は逃げもせず、また兵を増員しに戻ることもせず、己の誇りを貫いたと言い、暗に父の執権職が危ういと口にします。
見方によっては、重忠を討たせることもまた、父の失脚を狙うための策略であったとも取れます。それはともかく、牧の方(この大河ではりく)が騒いだこと、重忠との戦などの大部分はすべて『吾妻鏡』の記述によるものです。但し『吾妻鏡』では稲毛重成が最初から関与したことになっています。重成の弟の榛谷重朝もこの時殺されており、そして何よりもこの時、義時に男児(政村)が生まれたことになっています。この人の子孫の茂時は、鎌倉幕府滅亡の際、執権高時と運命を共にします。
個人的にはこの戦闘部分よりも、それに至るまでの方が面白くはありました。そして次回ですが、いよいよと言うか、平賀朝雅を巻き込んでの騒動となりそうです。
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