第33回『修善寺』前半部分です。それから先日投稿分をいくらか手直ししています。何よりも、アイルランド戦のファイナルスコアを間違えておりました、お恥ずかしいことです。
義時は新しく鎌倉殿となった実朝に、義朝のドクロを見せる。政子は実朝に、頼朝が挙兵の際にこのドクロに命を賭けると誓ったことを教え、全てはこのドクロから始まった、これからは貴方がこれを持つようにと言う。義時も諭すように言う。
「上に立つ者の証しでございます」
実朝は、手にしたドクロを眺める。一方修善寺の頼家は酒におぼれ、自分こそ鎌倉殿であると喚き散らす。
建仁3(1203)年10月9日。実朝の政所始(政務開始)が行われる。これを取り仕切ったのは、行政筆頭である執権別当に就任した時政だった。時政は目の届きにくい西国の御家人たちに、起請文を書かせ、鎌倉殿への忠義を形で示させようとしており、それを、上洛した娘婿の平賀朝雅に命じるつもりでいた。
また時政は比企がいなくなった今、武蔵国の国務を自分がやるつもりでいた。朝廷への取次を二階堂行政に頼む時政を、義時は冷ややかに見ていた。三浦義村は義時、時房と一杯やりながら、お前たちの親父殿が派手にやってくれていると言い、時房はやる気の表れだと言うが、誰のやる気だ、りくのかと義村は皮肉めかした言い方をする。
比企の件から、北条に不満を持つ者が増えている、やり方が汚いと義村。道で誰かとすれ違ったかと義村は思わぬことを尋ね、時房がそれを否定すると、みんながお前らを避けていると義村は言う。そんなことははなから分かっていたことだと義時。義村は酒を注ぎつつ、調子に乗り過ぎるとしっぺ返しを食らうぞ、親父殿にそう言っておけと2人に伝える。その親父殿である時政は、りくと酒を酌み交わしていた。
りくの思い通りにことは運んでおり、彼女も上機嫌だった。そして夫を「執権殿」と呼び、名実ともに御家人の頂に立ったと喜ぶ。執権を北条が継ぐことを確認したうえで、次は政範であるとりくは嬉しそうだったが、すこしはわしにやらせてくれと時政。次は武蔵ですねと言うりくに、お前は欲が深い、流石に自分が武蔵守を所望した時は、皆ひきつっておったと時政は答える。
しかしりくは、北条は今や敵を持つ身であり、武蔵の国守となって武士を従え、兵を増やすべきと主張する。さらにりくは、いよいよ都から実朝の御台所を迎えるほぞを固めていた。その都では朝雅が後鳥羽上皇に拝謁し、上皇の近辺に飾られた工芸品に感心していた。御所や桜、橘で都を、琵琶で近江の海(琵琶湖)を表し、さらに吉野の桜があり、富士山のふもとのボロ家は、鎌倉を表現していた。
上皇は実朝の嫁取りの話を聞いた、都から正室を差し出せと言ってきおったと言う。滅相もないと朝雅。では誰がそう言ったのかと問われ、舅であると朝雅は答える。上皇は時政を田舎者呼ばわりするが、自らが実朝の名付け親でもあり、一肌脱いでやってもよいと朝雅に言い、自分の血筋に近い者を選ぼう、誰がよいかと慈円に尋ねる。
慈円は権大納言坊門信清の息女は如何かと進言し、上皇は、鎌倉に心して待つように伝えろと朝雅に命じる。朝雅が退出した後、今度は源仲章が入室し、比企を滅ぼしたのは北条の謀略で、何としても代替わりさせたかったようであると話す。忠臣である源氏の棟梁の座を、坂東の田舎侍によいようにされるとはと上皇は不満げだった。北条を潰されますかと問う仲章に、実朝は大事な駒であり、坂東の者たちに取り込まれぬよう導くのじゃと言い、仲章に鎌倉へ下れと命じる。
鎌倉へ頼家から文が届く。その文には、まず退屈でたまらないので近習をよこせとあり、そして、安達景盛の身柄を引き渡してほしいとあった。近習の件は謀反の恐れもあるため捨て置かれ、景盛のことも、妻を渡さなかったことを頼家が恨んでいると受け取れた。時政は、頼家が景盛を討ち取るつもりであると言う。義時は頼家がまだ、自分が鎌倉殿であることを示したがっていると気づく。無論これも受け入れるわけには行かなかった。
修善寺。部屋には、せつと一幡の厨子が置かれていた。頼家はここを訪れていた義村に、はなから文を受け入れられるとは思っていなかったが、自分を忘れないように、たまに喧嘩を売るのだと言う。庭では猿楽が行われていた。執権殿にそう伝えると言って去ろうとする義村に、頼家は善哉とつつじについて尋ねる。
義村は、鶴岡八幡宮の別当が2人の面倒を見ていると答える。その義村に頼家は、父頼朝が石橋山の敗戦から、一月半で大軍を率いて鎌倉へ乗り込んだと言い、自分も必ず鎌倉へ戻ると言い、さらには鎌倉を火の海にして北条の者たちの首を刎ねる、覚悟して待っていろと伝えるように命じる。義村はその命令に従ったうえで、なおも鎌倉殿に固執する頼家に言う。
「この先何十年か、猿楽くらいしか慰めもないまま暮らすことを考えれば、華々しく散るのも悪くはないかも知れません。おやりなさい」
頼家は力を貸すよう義村に頼むが、義村はそれを断る。そして鎌倉にこのことを伝え、義時は挙兵されるのかと尋ねるが、義村は言っているだけだろう、兵が集まらないと答える。大江広元は早く手を打つようにと時政に言うが、三善康信は、先の鎌倉殿であるからと尻込みする。しかし広元にそれは通用しなかった。そして、一同から離れて座っていた八田知家は言う。
「言いにくいなら俺が言ってやるよ。
鎌倉殿は2人要らねえ」
時政は頼家を討とうとする。これには周囲が反対するが、時政に取っても孫であり、辛いのは間違いなかった。しかし義時は様子を見ることにし、知家に頼んで警固を増やすことにする。不審な動きがあれば、覚悟を決めるつもりだった。
しかし泰時はこれに反対する。義時はすべては鎌倉のためであると言い、泰時はそれは北条のためではないかと言うが、義時は明言する。
「同じことだ。北条なくして鎌倉は成り立たぬ」
さらに鎌倉がなくなれば再び戦乱が起こり、頼朝が望んでいたものがこの世から亡くなると言う。そして義時は自分に言い聞かせるようにこう口にする。
「まだ決まったわけではない、まだ…」
その頃政子は康信に本音を話していた。実朝は跡を継いでほしくなかった、頼家のようにはなってほしくない、政に携わるということは争いに巻き込まれるということであり、早く鎌倉殿の座を誰かに譲って、自分の好きなことだけをして穏やかに生きてほしいと語る政子に、お察しいたしますと康信。
そして政子は、実朝が幼い頃、軒の雨だれを一晩中眺めて一睡もしなかったという話を引用し、和歌をやらせてあげたい、政よりよほどましだと言う。つまり康信に、実朝に和歌を教えてやってほしいと頼んでいるのだった。ところがこの話を聞いていた実衣が、鎌倉殿のことは自分に任せるようにと言い出す。自分にも考えはあると言う政子だが、実衣は引かなかった。
鎌倉殿には武士の手本となって貰い、人を動かし、正しい政を行うこと、大事なのはそこだと言い、実朝は私が育てたのだから、余計な口出しはしないようにと釘をさす。唖然とした表情の政子。そして翌年の正月、実朝の読書始の儀が行われ、仲章が儒学の講義を行う。そして康信は和歌を教えることになり、韻律について説明する。
実朝の時代が始まります。あのドクロの継承の儀式が行われるのですね。如何にも三谷さんらしくはあります。そして時政の力がいよいよ大きくなって行きますが、無論これをよく思わない者もいました。無論その時政のやり方と言うのは即ちりくのやり方であり、りくは時政周辺でさえよく思わない武蔵守就任も肯定し、そして何と言っても、京から御台所を迎えることに野心を燃やしていました。
そして京では、平賀朝雅が後鳥羽上皇に拝謁していました。上皇は身近な工芸品を日本の各地に見立てていましたが、富士の近くにあるボロ家が鎌倉であり、この人物、さらにこの当時の朝廷の東国観が窺えます。坂東の田舎侍を嫌いつつも、しかし実朝の名づけ親である以上、御台所を世話することには乗り気で、結局坊門信清の娘と決まりました。しかし朝雅が退出した後、源仲章が、やはり比企滅亡に北条が絡んでいたことを知らされ、実朝が坂東の者たちに取り込まれないようにと、仲章を鎌倉へ派遣します。
それと頼家、すっかり自暴自棄といった感じですが、亡くなった妻子、生きている妻子のどちらも気に留めているようです。しかし鎌倉への執念、北条への恨みはすさまじいものがあるようで、義村はこのことを鎌倉に伝え、時政は討とうとするものの、義時は様子見を決めます。
政子。我が子可愛さなのでしょうが、源氏の血を引く者は鎌倉殿とならざるをえなかったのです。サラブレッドに生まれたら、レースに出なければならないというところでしょう。そして実衣、乳母としての威厳を見せつけるのはともかく、彼女が「実朝を育てるところ」は殆ど出てこなかったと思うのですが。
あと十三経、武者さんがこれについてコラムで書きそうですね。
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