第85回の気になった点です。
奪った権利書を取り返されないよううずくまる二ツ橋をカメ呼ばわりする暢子 そこへやって来た三郎と、三郎に戦後シベリアで世話になったためあっさり引き下がる権田 出て行こうとする三郎に、三郎と房子の過去のことを喋り、絶対に会うべきなどと言い出す暢子 しかも言葉に詰まってしまい、シークワーサーが食べたいだの、挙句の果ては結婚をまだ許して貰っていないのに、結婚式をフォンターナで挙げたいなどと言い出す暢子。しかも三郎にも多江にも出席を要請する暢子 そして三郎と顔を合わせたくないため、ドアの陰に隠れている房子に披露宴はここだと主張する暢子 「みんなでおいしいもの食べましょうね」その「おいしいもの」はフォンターナのスタッフが作るのですよね? またスプーンで味見をする暢子 詩を唱えながら母親に近づく和彦 子供時代の沖縄の「おいしいもの」に絡めてか、まだ重子が許していないのに、結婚式はフォンターナでやる、おいしいものがいっぱい出る、母さんとも一緒に食べたいなどと言う和彦 暢子を結婚させるため、重子に直談判しようとする良子 また養豚場を辞める賢秀 暢子のラフテー弁当のおかずの昆布巻きやごぼう巻きがちょっと疑問
例の権田の件ですが、結局三郎にシベリア抑留で世話になったとかで、あっさり引き下がってしまいます。伏線らしきものもなし、こうなると何でもありだなと思ってしまいます。展開が適当過ぎるし、制作側がそう思われたくないのなら、先日も書きましたが、この世代の人たちのつながりをもっと詳しく描くべきでした。
それにしても暢子。フォンターナで、権利書を二度と奪われまいと-いずれにしても名義変更されていないから、どうにもならないとは思いますが-、抱え込んでうずくまる二ツ橋をカメだと言ったり、房子に三郎と絶対会うべきだと強引にドアを開けようとしたり、言葉に詰まってシークワーサーだの、結婚式をここでやっておいしいものを食べようと言ってみたり、彼女の精神年齢はいくつなのかと疑いたくもなります。重子への弁当然りです。その弁当作りの時、またスプーンで味見していますね。
その房子ですが、扉の陰に隠れていないで、三郎にお礼だけ言うという方法もあるでしょう。そもそも暢子が、2人は絶対に会うべきなどと言うから、房子も出て行くに出て行けないのかも知れませんが、私たちの間はもう何もありません、三郎さんには多江さんという奥様がいますと言ってしまえば、最早暢子が口を挟む隙はないはず、なのですが。
無論これも三郎にお礼を言わせるため(過去を蒸し返すためではなく)、暢子が房子に出て来るように、それとなく促すという描き方もできたでしょう。しかし結局のところ、暢子が1人で騒いでいるようにしか見えないのですね。なぜ、このような描写にするのでしょうね。
和彦にも同じことが言えます。結局三郎の過去をほじくり返すようなことをしているし、しかも自分の母親には、フォンターナで結婚式をする、おいしいものが食べられるなどと、暢子と同じことを言い出すわけですが、2人で示し合わせたのかと思ってしまいます。しかし和彦も暢子も、結婚式=おいしいものと考えているのであれば、何だか安易ですね。
『あさイチ』で、博多大吉さんが和彦の好感度が低いと言ったようですが、確かにそう思います。これは暢子もそうですが、結婚して家庭を築くという気構えが感じられず、第一そのための話し合いもやっているように見えません。暢子の弁当にしても、和彦が一言びしっと「母も迷惑しているから一旦やめてくれ」と言えばいいことなのですが、それを言うと暢子が不機嫌になるから言えないのでしょうか。そういう2人が結婚して、本当にうまく行くのでしょうか。
そしてまたも良子。今度は青柳家に乗り込むことも辞さないようです。しかし思うのですが、彼女は教師であり母親であるわけです。学校は?晴海は?と、一々突っ込みたくなってしまうのですが。さらに賢秀ニーニー、やはり暢子の結婚絡みでまた養豚場を辞めるようですが、このパターンもそろそろ飽きて来ました。予告ではこの2人が乗り込むようですが、余計に反感を買うような気がします。
しかし何よりも展開に無理がありすぎで、そのため主人公に感情移入できないのが、面白く感じられない最大の理由でしょうか。挫折したり、大事な存在を失ったりしつつも成長して行くからこそ、主人公が結婚したり出産したり、あるいは仕事の面で成功した時には祝福したくなるわけですが、この主人公は、本当に成長しないのですね。
ラフテー弁当のおかずのごぼう巻き、この間の御三味弁当にも入っていましたが、明らかに違うタイプの弁当なのにおかずは同じ物なのでしょうか。あとドアを開ける開けないで房子と押し問答をするシーン、ドアのガラスに映った暢子の顔がちょっと怖かったです。
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