第16回「伝説の幕開け」後半です。
義仲たちは近江に向かうが、そこには範頼の軍がいて窮地に立たされる。義仲は巴に落ち延びるように命じ、義高への文を託し、わざと捕らえられて鎌倉へ行くように言う。巴は反発するが、女は殺されない、ただし手向かいはするなと義仲は忠告し、彼女は一人鎌倉を目指す。するとそこへ、義経軍の兵が行く手を阻み、巴は戦うも組み伏される。彼らは義盛の兵たちだった。
義仲は今井兼平と共に落ちて行ったが、ここにも武者たちが行く手を阻んでいた。兼平は自分が盾となり、義仲を彼方の松原へ逃がそうとする。自害にはもってこいの場所だと笑う義仲は、やるだけのことはやったが、ただひとつ心残りなことがあると言いかけたところで、額に矢を受ける。同じ頃鎌倉では、大姫、義高そして幸氏の3人が、烏の鳴き声を耳にしていた。
京からの便りが鎌倉に続々と届く。土肥実平の文は悪筆で読めたものではなく、義盛は絵入りであったがこれも悪筆だった。義時の文は字はまともだが内容が細かすぎ、梶原景時のは簡潔で要点を押さえた書き方だった。しかし頼朝は既に、朝一番に届いた義経からの手紙でことの次第を知っていた。それには「木曾討果」と大書きされていたのである。
これは全成、実衣、そして政子の知るところとなる。政子は義高を守ると決心する。その義高は大姫や幸氏と毬遊びをしていたが、どこか心ここにあらずといった感じだった。
範頼の陣では、福原の平家をどのように倒すかで軍議が開かれていた。景時は味方の損失を防ぐためにも、北から山を下りて攻める方法を提案する。軍勢を二分し、生田口から範頼が攻めて敵を引きつけ、その間に義経が山側から敵の脇を突くのである。しかし義経は、まず福原の北の三草山の平家軍を攻める方法を採る。それでは手の内を晒すも同然と景時は言うが、意表を突いて山から攻めるのは子供でも、敵でも思いつく、ならば手の内を見せてやれと義経は主張する。
他の者たちはこのやり方に納得が行かず、義経は面倒くさそうに、敵の力を散らすためだと説明する。そのうえで予想外の所から攻めるつもりだが、それはその場をこの目で見て決めるつもりだった。さらに義経は、もう翌日三草山に夜討ちをかけるつもりでいた。三草山までは2日はかかり、しかも平坦な道ではないと言われるも、義経は声を張り上げる。
「何だ何だ、坂東武者は口だけか」
義時は景時の意見を聞いてみるが、景時も義経が正しいと認める。義経は我が意を得たりといった顔をし、範頼もこの策に乗ることにした。その後景時は義時に、あの策は本来は自分が思いつくべきなのに、その前で止まってしまったのが腹立たしいと本音を洩らす。戦をするために生まれて来たような人だと義時は言い、八幡台菩薩の化身のようだと景時も言う。
その2人の背後に義経が現れ、景時を行かせた後、義時に、後白河法皇に文を届けるように命じる。つまりは平家との和議だった。2日後の6日には先方に伝わるのがいいと義経は言う。そして自分たちは何も知らなかったような顔で、翌7日に油断した平家軍に攻め込むのである。義経はこうも言った。
「だまし討ちの何が悪い」
法皇は平知康に命じ、平宗盛に文を遅らせる。丹後局は、今度の源氏の御曹司は法皇様と気が合いそうだと言い、法皇もこの手のことに興味を示す人物だった。一方宗盛は和議の知らせを受けて悩む。そしてその頃、三草山の平家軍に夜討ちをかけた義経軍は、福原へと向かっていた。この地の者と一帯を観て来た景時は、ここから先は断崖絶壁だが、一か所だけ鵯越という、なだらかな場所があると教える。
しかし義経はそこを降りるのは不満そうで、さらに険しい鉢伏山の蟻の戸を降りようとする。景時は、貴殿にできても兵にできなければ、多くの兵たちが無駄死にする、大将ならそこまで考えていただきたいと諫める。すると義経は、まず馬を、次に人を行かせればいいと反論する。
景時が、坂東武者にさような不様な真似はできないと言うが、大量の兵を無駄死にさせられないと義経は言って、自分の軍だけで行こうとする。畠山重忠はこれに乗り、義経について行くことにする。あとは義時と景時だけが残った。景時はつぶやく。
「何故、あの男にだけ思いつくことができるのか」
江間の館では、八重が金剛をあやしていた。その時三浦義村が、やはり赤ん坊を抱いて入ってくる。後詰めであったため、まだ鎌倉にいたのである。義村はその赤ん坊の母親が、肥立ちが悪く死んでしまい、ここで預かってほしいと言い、着替えと食物は後で届けさせると言って去って行く。
2月7日早朝。義経は鉢伏山の上にいた。その辺りには鹿の糞が落ちており、鹿が下りられるなら馬も大丈夫だと嬉しそうな顔をする。そして範頼の軍は生田口で平知盛の軍とぶつかる。宗盛は、生田では味方劣勢との知らせを受けるものの、この一ノ谷の陣は大丈夫だと思っていた。
しかしそこに意表を突いて義経軍が現れる。浜辺で平家軍を相手に勢いづく義経を観て、景時はまたも言う。
「八幡大菩薩の化身じゃ」
戦闘が本格化し、不利な状況に立たされた義仲は北陸へ逃れようとしますが、近江に既に範頼の軍がいるため、巴を逃がすことにします。この巴のその後には諸説あり、一説には和田義盛の妾になったともいわれています。ところでこの時義仲は、彼女に義高への手紙を託していますが、仮に捕らえられて鎌倉へ連行されたとしても、内容次第では彼女も死罪を免れなかったのではないでしょうか。
義仲が討ち取られた件を知った政子は、義高を死なせないと決心しますが、問題はこれでどのようなメリットあるいはデメリットがあるかです。生かしておいた場合、義高が今後頼朝や万寿に矛先を向ける可能性がなきにしもあらずです。それにしても実衣はまだあの赤い着物なのですね。義時も直垂が変わったし、そろそろ彼女も色はそのままで、新しいのを着てはどうでしょう。
それから畠山重忠の妻の件、実際これは義時の妹の一人が輿入れすることになります。しかし実衣以外の妹があまりにも登城しませんね。一方で時房の出番はいつ頃になるのでしょう。あと義村の子供の初、どうもこの子は北条(江間)家の子として育てられそうです。
義仲がいなくなり、義経たちの標的は平家に絞られます。しかし義経も敢えて人がやらない方法を採るのは、戦国期の武将を思わせるものがあります。しかもこの人の場合、後白河法皇を動かして偽の和議をさせたりもしていますし。そして法皇もこういうのが大好きじゃなどと言うあたり、丹後局のセリフにもあるように、両名はどこか通じ合うものがあったようです。
その義経の、率先して新しいことをやる姿勢に景時はたじたじです。見方を変えれば、自分こそ軍奉行として名を上げたいと思っていた矢先に、突拍子もないことをやる人物が上に立ったことで、手柄を立てられないという焦りのようなものも感じます。ちなみに八幡大菩薩というのは、元々の八幡大明神に朝廷より菩薩号が贈られたもので、神仏習合の先駆的な存在とされています。
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