『武将ジャパン』の大河コラム関係、今回は他にもいくつか突っ込みどころがありますので、それらの点についてざっと。
しかもこのサークルには文覚まで参加してきおった。こいつは魚を取ってロクに仕事をせず、処罰されたばかりなのに、どこまで人として最悪なのか。
文覚が何を目的としてこれに加わったのか、あるいはなぜ生臭坊主のようなことをわざわざしたのか、あるいはそれも一考に値すべきかも知れません。
そして都の人々の義仲観。
『京都人の密かな愉しみ』というNHK番組があるのですが、さながらその中世暗黒版といった回でした。
あいにく私はこれを観ていないので何とも言えませんが、その京都人の義仲への対応として、
牛車にうまく乗れていない木曽義仲を嘲笑う。
思いつきで命令をコロコロと変える。
義仲を山猿とバカにする。
猟犬のように義仲をこき使っておいて所領を取り上げる。
人をコケにし、自分達以外は人ではないと見下す。
まず牛車から降りるときは、供の者が履物を揃えるわけですが、義仲は自分で履物を叩きつけているわけですから、これは笑われても仕方のないこと。そして思いつきで命令をコロコロ変えるとありますが、義仲自身や彼の兵の振舞い、さらには即座に出陣しない態度などもあってのことでしょう。
それから「山猿」ですが、『真田丸』の時の昌幸も上洛した際、三成から献上品の毛皮をけなされて、同じような気持ちを抱いていたのではないでしょうか。あと所領を採り上げるというのは、頼朝に東山道の軍事支配権を任されたということですが、これは頼朝の作戦勝ちのようなものですね。
また「人をコケにし」と「人ではないと見下す」、この2つの「人」の意味するものは異なっているように見えますが、具体的にどうなのか書いてほしいです。前者は義仲とその兵たち、後者は都人のことでしょうか。
そして今度は木曾義仲を呂布に例える。
『演義』はじめフィクションではともかく悪事が強調される董卓と呂布。これには考えたい要素があります。
董卓や呂布は、北からやってきた。中原にいる漢族とは異なる、異民族でした。
異民族が都を荒らし回ること。これは絶対的な悪であるとされます。
(中略)
董卓や呂布への嫌悪感の背後には、中華思想があるのです。
(中略)
義仲と呂布は立ち位置として似ています。
彼らは何が悪いのか?
確かに野蛮で、暴力的だったかもしれない。けれどもそれ以前に、異民族であって、しかも都に入った時点で悪だとみなされてしまった。
この構図にはどうしたって差別があります。
このドラマは義仲の義を描き、透き通った人物とすることで、差別構造を描きました。
そこが新しいと思えるのです。
そしてこの差別は、ずっと根底に響いているのでしょう。鎌倉から坂東武者が結束して京都へ攻め上る【承久の乱】には、華夷の差別構造を打ち破るための闘争として描かれるのだと思います。
差別云々以前の問題として、義仲は異民族なのでしょうか。彼もやはり河内源氏で、父親を頼朝の異母兄義平に殺されたことから、信濃に逃れたのではなかったのでしょうか 。そして呂布は今の内モンゴルの出ですからともかくとして、董卓は今の甘粛省出身です。彼も異民族なのでしょうか。 あとこの大河では描かれていませんが、義仲も朝廷から恨まれても仕方ないようなこともやっていますね。
また承久の乱は、その前提として実朝没後の将軍継承問題も関係しているわけですし、元々は義時一人を狙ったものでした。またこの時義時の調伏が行われたともあります。武者さんは、この頃呪詛はなかったなどと書いていたことがありますが、この時代ももちろん行われていました。
そして「鎌倉イケメンパラダイス」なるものが出て来ます。
ここで本作のイケメンのことでも考えてみましょう。
畠山重忠:顔の良さだけでなく、道徳心も美と考えているのか。言動に優しさが溢れています。自分の見た目ではなく、心で相手を惹きつけたい。そんな誠意が輝いています。
源義経:自分の顔がよいことをいまいち理解していないのか、顔芸をし、叫び、美貌を無駄にする。無駄な美形。美貌を使って何かしようという意識はないようだ。
三浦義村:薄々自覚はあって、女遊びをするカードとして使ってやろうじゃねえかと考えているような。でも、そういう心のドス黒さが顔にも出ているかも?
個性的ですね。
言動と総合的に考えると、義高と重忠はともかく、残りの二人はおすすめできないタイプとみた。
イケメンだからといって何もかもが許されるわけではありません。
義時は、小栗旬さんならばイケメンに決まっているけれども、むしろ誠意が先に立つ。これは凄いことだと思いますよ。八重さんデリバリーサービスがおかしかったこともあるけれど。
『花燃ゆ』の「幕末男子の育て方」、そして『青天を衝け』の「国宝級イケメン」への批判は一体何だったのでしょう。 またこういう個人の趣味と言っていいことを書く辺り、この大河を掘り下げようという気持ちが少々薄れているのではないか、そう思いたくもなります。そしてこんなのも。
顔のいい男にメロメロしているのは、女だけでもないのが中世です。
中世に限らず、その後の時代でも衆道は存在し、夜の相手をさせられたこともあったようです。『おんな城主 直虎』でも直政が家康に呼ばれて、驚くシーンがありましたね。
そして義経の個性について。
義経は鞍馬の修行に意味があったかわからないと言いました。
(中略)
そういう伝説(鬼一法眼から六韜三略を与えられた)を全否定しないものの、義経の天才性はそうして得た後天性ではないという示唆に思えるのです。
義円は『孫子』を暗誦していた。
義経はそれに苛立って脅威を感じていた。
自分にない、後天性で身につけた才能を義経は嫌ったのでしょう。
とあり、さらにこのように書いています。
このドラマの義経は、先天性の才能と災厄を持つと設定されているのでしょう。
どうして義経をこんなに嫌な性格にするのか理解できないという感想は見かけます。『麒麟がくる』の信長もそうだったとか。
人間の多様性を考慮しているのでしょう。
三谷さんの『真田丸』で物議をかもしたヒロイン・きりを思い出してください。
きりはもっと無難な造形にできた。それをああも個性的にした。
“普通”で“無難”な人間だけがこの世界にいるわけではない。性格の個性を描いた結果でしょう。
要は、この義経は書物で得た知識ではなく、天性の軍事的才能ともいうべきものを持ち合わせていたということでしょうか。しかしこの場合多様性と言うか、ドラマを面白くするため、様々な登場人物に違ったキャラを持たせるということであり、別にこれはこの大河のみに限った話ではありません。 ここでまた『麒麟がくる』の信長を引き合いに出してはいますが、様々なキャラ設定という点では、別に武者さんが嫌いな大河の登場人物であっても同じです。
それから
「きりはもっと無難な造形にできた」
ですが、彼女を常に信繁と共に行動させるのであれば、あのくらいでないとだめでしょう。無論それはそれでいいのです。疑問 なのは、 なぜ武者さんが「もっと無難な造形にできた」と考えるのかということです。ただ単に
「“普通”で“無難”な人間だけがこの世界にいるわけではない」
というのを書きたかったからなのでしょうか。しかし「“普通”で“無難”な人間だけ」であれば、ドラマなど作れないでしょう。
それと「性格の個性」て一体なんでしょうか、人物の個性のことですか。
視聴率に関して。
これも『鎌倉殿の13人』の最初の方で出て来ましたが、
海外は視聴率ではなく、視聴者数や再生数で換算します。
つまり視聴者数を考慮に入れろということですが、二言目には「海外は」、出羽守と言われても仕方ありません。
ゆえにこれからは、視聴率は重視されなくなります。
『鎌倉殿の13人』の視聴率はそこまで高くありませんが、視聴回数とのかねあい、反響等評価されることでしょう。
だそうですが、リアルタイムの視聴率が12パーセント台に下がっているのは、武者さんとしては不満なのでしょう。いくつか理由は考えられますが、登場人物が多すぎるという意見もあるようです。
そもそも自分が嫌いな大河の視聴率は叩いておいて、好きな番組の視聴率が下がったらこういう形で持ち出すというのも感心しませんね。来年の大河がもし嫌いな作品で数字が低かった場合、視聴率をことあるごとに持ち出して来るのではないかと思ってしまいます。
スマートフォンやタブレットでもNHKが見られる。
そんなNHKプラスアプリが、テレビ接続デバイスにも対応しました。Amazon Fire Stick等を用いて、バンバン大河が見られるようになったことを意味します。
NHKがこういうのに参入するのは、やはり受信料のこともあってと思われるのですが、なぜかそれについては一言も書かれていません。その一方で、嫌いな大河や朝ドラのコラムでは、受信料の無駄遣いなどとあるのですね。
そして働き方改革。
韓国映画『パラサイト』はアカデミー賞を獲得し、話題となりました。
のみならず、あの作品はキャストとスタッフの労働環境を遵守したことでも特別なのです。
『鎌倉殿の13人』には、そんなところでも特別であって欲しい。
とありますが、キャストとスタッフの所謂「働き方改革」は『西郷どん』や『まんぷく』の頃から行われています。『まんぷく』は、安藤サクラさんがこのことに感謝していたようです。
あとアカデミー賞受賞ならば、一行程度でもいいので『ドライブ・マイ・カー』にも言及してはどうでしょうか。
しかしなぜここまで大河と直接関係ないことを、こう長々と書くのか理解できません。これを書かせる運営サイドにも問題ありかとは思います。
最後に、実はこれは書き洩らしていた分なのですが。
(三浦義村は)女にちょっかいを出しているけれども、隠し子ができるような段階まではそうそういかないそうだ。その点、義経はあっさり比企の道とそうなっていた。
義経が共に一夜を過ごしたのは「里」です。「道」ではありません。 道と一夜を過ごしたりしたら、比企能員が黙っていないでしょう。しかも第14回の時点で、義経の隠し子などは出て来ていませんが。
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