『武将ジャパン』の大河コラム関連です。今回も、2回に分けて投稿します。
鎌倉殿の13人感想あらすじレビュー第12回「亀の前事件」 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
1. 義時が八重に休むように言うシーン、本来であれば「親の喪に服す」趣旨の言葉のほうが相応しいが、その概念が浸透していない可能性あり、なんせ当時の坂東には儒教がまだ根付いていない。故に八重がいつ再婚してもおかしくない
2. 全成は僧侶のまま還俗していない。当時の日本仏教はまだ緩かったのでしょう。『麒麟がくる』では、僧侶だった足利義昭が、いったん還俗してから将軍になっている
3.北条家の家督について話すところ、凄まじく高度で情報量が多い。現代の研究でも意見が割れるところで、含みを持たせつつうまく丸めるのが三谷さんらしい。このシーンは教材に使いたいくらい秀逸
4. 乳母というのはただ単に「授乳する」という役目だけでなく、女性権力の象徴でもあった。これも中世ならではのこと
5. 会議の進行係を請け負うのは義時で、さっそく産養(うぶやしない)の担当者を分配
1、「親の喪に服す」はともかく、この当時「儒教が根付いていない」というのはどうでしょうか。日本は儒教国家ではないし、故に八重がいつ再婚しても云々も乱暴ですね。このシーンで彼女が全成に対する実衣のように、親し気なそぶりでもしたのならともかく、寧ろその逆かと。(しかし八重の出番が多い…)
2、またここで『麒麟がくる』との比較。全成は還俗しなかったともいわれていますが、この時はもう所領を貰っていますね。しかし1つ前で儒教が根付いていない、ここでは仏教のルールが緩い、原始的だという印象を植え付けたいのでしょうか。
3、「高度で情報量が多い」て、普通に今後の跡目について話しているだけで、確かに三谷さんらしい会話シーンではあると思いますが。そもそも何が「高度」なのでしょうか。そして何の教材に使いたいのでしょうか。
4、いつから中世と定義づけているかにもよりますが、平安時代は既に乳母が一定の権力を持ち、それによって乳母の身内が出世したりもしています。
5. 「産養」がここでは説明されていませんが、要は出産後に三日目、五日目、七日目、九日目と日にちを決めて行われる祝宴で、子供の衣服などを贈るならわしがありました。
6. 政子は義経に「頼朝はずっと一人で生きてきたのだから兄弟は大事だ」と励しても、「兄弟は私一人ではない」と義経が拗ねるのが可愛いが、先週自分の謀略で兄を死なせている
7. 乳母の一族ということで、比企能員が重用される。頼朝と政子の間に生まれてくる子を、頼朝の乳母だった比企一族が担当することで、他の御家人との間に危うい亀裂が少しずつ生じてくる
8. (義時が八重相手に粘るのが)いやぁ、気持ち悪い。こんなにうっとうしい大河主人公も珍しい。ただ、これも当時らしさではある
9. 文覚にもストーカー伝説があります。当時は大変な時代です。しかも、被害者は女性だけに限らず、「悪左府」の名で知られる藤原頼長は男性に惚れ、祈祷はするわ、しつこくアプローチをするわ、悪質なストーカーと化していたなんて話もあり、大変な時代である
10. 政子は比企のところへ行き、まぁ、要するに頼朝は息抜きをしている。大勢の視聴者を敵に回しかねない生々しい下劣さが炸裂している
6.、義経が拗ねるのが可愛い…とは思いませんが、何かしたくてうずうずしていて、思いがけないチャンスを利用して暴れまくって、子供みたいだなとは思います。
7、比企一族が担当するのは、金銭面での援助などをして貰ったせいもあり、やむを得ないとは思いますね。
8、義時は別に鬱陶しくも気持ち悪くもなく、ただ本人としては八重が心配だったとは思われます。自分の所領に住まわせるわけですから。
9、まだ、『源平盛衰記』の創作の文覚を持ち出しているのでしょうか。 しかもこの当時の恋愛事情、あくまでも恋愛であって、ストーカー被害の加害者と被害者とはまた違うかと思われるのですが。
10、「生々しい下劣さ」とも思いませんが、ただ政子に隠れて密会を楽しんではいますね。亀も政子が認めたわけではないし。
それからこれは後の方になりますが、漢籍好きの武者さんがこのようなことを書いていますので、ちょっとご紹介しておきます。最後のところ、義時と上総広常が会うシーンですが
当時の坂東は教養が深めにくかった。広常はその典型というわけです。
そして教養がいらない時代も終わりに近づきつつあります。
大江広元なら、こんな言葉を引っ張ってきそう。
士別れて三日なれば刮目して相待すべし。
士たるもの、別れて三日たてば、目を見開いて再会すべきです。
『三国志』の時代、孫権の配下に呂蒙(りょもう)という人物がいました。
家庭環境に恵まれず、若い頃から従軍し、広常と同じく学ぶ機会がない。
すると孫権は勉強をするように言います。
軍務が忙しいと言っていた呂蒙ですが、しぶしぶ学びはじめます。
そんなあと、孫権配下の魯粛(ろしゅく)が呂蒙と話してみると、彼はすっかり変わっていました。
魯粛はこういいました。
「参ったな、もうこれじゃ呉下の阿蒙(呉に住んでいる蒙ちゃん、子どもへ呼びかけるニュアンス)なんて呼べないね」
そこで呂蒙は「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」と言い返したのでした。
これ、大江広元が「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」と言っているのでしょうか。ならばちょっとおかしな話です。元々この言葉は、勉強してすっかり変わった呂蒙が言っているのですから、この場合広元でなく広常が言わないと意味が通りません。 このコラムは時々、誰が主語なのかよくわからない書き方がされています。
それと「目を見開いて再会すべき」となっていますが、刮目して相待すは「よく注意して相手を見る」という意味ではないかと思います。またこの箇所の前に、通称が小四郎とか平六とか、シンプルで画数が少ないとあるのが、教養が必要とされなかったとありますが、この当時の通称は太郎や次郎などの名前が多く、たとえば「〇兵衛」とか「〇左衛門」のような通称が出て来るのはこれより後ですから、そのへんも関係しているのではないでしょうか。尚小四郎は、四郎(時政)の息子だからといわれていますね。
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