高杉晋作が肺結核(労咳)であったことは有名です。元々この人物は風邪を引きやすく、腺病質であったともいわれています。またこの時代は、かの新選組の沖田総司も同じ病気であったため、敵同士ではあるものの、ついついこの2人を比較する、あるいはダブらせて見ている人もいるかもしれません。この当時、そしてその後もかなりの間、肺結核は致命的な病気とされ、特効薬はありませんでした。従って、幕末物で高杉が吐血した時は、どの作品であっても、表情がこわばったようになっています。長州軍の指揮官として、今まさに幕府を倒さんとしている時のこの病気は、本人に取っても辛いものだったでしょう。
ちなみに結核菌がロベルト・コッホによって発見されたのは、1882年で、これから16年後のことです。ワクチン(ツベルクリン)ができたのはその8年後ですが、これは治療よりも検査用として用いられるようになりました。いずれにしても、幕末の日本にはまだワクチンさえもなく、それ以前に、細菌学がそこまで発達していませんでした。元々結核は初期症状だけで自然に治癒することが多いのですが、何か他に病気を持っているとかで、免疫力が下がっている場合には、次の段階へと進み、血痰や喀血が起こるようになります。
『花神』の高杉の場合は、小倉城攻めの際にまず発熱、その後吐血でした。小倉城陥落後は一線を退き、おうのと共に、下関の桜山で療養生活に入ります。この時、奇兵隊兵士の墓参も行っています。一方『龍馬伝』の高杉は、洋行を企ててグラバー邸の屋根裏に匿われ、そこを訪れた竜馬と話している時にひどく咳き込みます。また、その後馬関に戻って、幕府軍との戦いの準備を進めている段階で喀血します。その後も戦地に赴きはしたものの、やはりこの小倉攻めが最後の戦場となりました。こう見ると、慶応2年、1866年の春から夏ごろに発病となっています。
そして『花燃ゆ』の高杉ですが、伊藤俊輔と話している時に咳き込み、いきなり吐血します。本当は発熱とか空咳とか、もう少しそれらしい前振りがあってほしかったです。そして、軍艦に乗っている時に喀血するわけですが、これも少し前に書いたように、ちょっと銃弾が当たって血を噴き出した風なのが残念です。この戦いが終わった後喀血という演出の方が、メリハリをつける意味でよかったように思えますが…。しかし、九州上陸後の戦い、高杉の最後の晴れ舞台であるだけに、もう少し詳しく描いてほしかったですね。
ちなみに『花神』の中村雅俊さん、『龍馬伝』の伊勢谷友介さん、そして『花燃ゆ』の高良健吾さんのうち、東行と称して出家した後の短髪を、自毛でやっているのは恐らく伊勢谷さんだけかと思われます。やはり自毛だと自然な感じがします。この『龍馬伝』の高杉は、着流し姿が多いのも特徴でした。戦地においてさえ、着流しの裾をからげた格好でしたから。ただ、ある程度背の高い人が着流しなのは、帯の位置が比較的高めでなかなか格好がいい物ではあります。
この慶応2年の夏に吐血した高杉は、翌年の4月に世を去ります。その半年後、大政奉還が行われて幕藩体制が終焉の時を迎えます。その後の長州の軍事は大村益次郎に受け継がれ、伊藤や井上、そして山県が、その後の処理をして行く形になります。高杉がもし維新後も生きていたら、どうなっていたか。恐らくは成し遂げたことがあまりに大きすぎて、意外と維新後は目立たない存在になっていたのではと思われます。これは、坂本龍馬にもいえることでしょう。実際、維新後も生き延びた西郷隆盛が、結局は下野して西南の役を起こしたのを見ても、ある種の大志を持った人物は、新政府という器からとかくはみ出しがちで、衝突を繰り返していた可能性もあります。
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