ここのところ、『花燃ゆ』の予習あるいは復習として、『花神』の映像を観ることがあります。なぜかというと、志士たちの動き、史実に至る伏線が、『花燃ゆ』だけではなかなか得られないからです。それにしても、おうのとの逃避行が描かれていないのは本当に残念でした。それでなくても、美和の登場場面がやたらに多いせいか、肝心の史実の部分、男性パートがいつも最低限しか描かれていません。
最低限の史実や戦闘しか描かれないのですから、彼らの日常生活、あるいは馴染みの女性と出会う場面などは、望むべくもありません。どうして美和の場面を削って、こういうのを描かないのでしょうか。ちなみに『花神』の高杉ですが、剣術をやっていた青年時代、そして雅としみじみと語らう場面、そして仲間とどんちゃん騒ぎをやったり、おうのと出会ったりした場面はもちろんきちんと描かれています。
ちなみにこの時のおうのとの逃避行で、四国の日柳燕石を頼って、妓楼で派手に遊びまわる描写があり、この時おうのがお座敷遊びに挑戦することになります。要は椅子取りゲームと同じで、座布団の枚数を人数を減らして円状に置き、三味線で「こんぴらふねふね」を演奏しながら段々テンポを速め、演奏が終わった時点で座布団を確保し、できなかった場合は罰として酒を飲まされるわけです。おうのは何度もこの罰ゲームをやらされ、多少足元がふらついていたのですが、こういう乱痴気騒ぎ的な場面が登場することにより、志士たちの生活もまた奥行きが出るわけです。
しかし、『花燃ゆ』の志士たちが、そのようなことをしている場面はほとんど登場しません。見方を変えれば、そこまで志士たちの生活を描くための時間的余裕がないとも取れます。時間があれば美和の場面に割かれてしまうため、蛤御門の変や大田絵堂の戦いなどのよほどの場合を除いて(それでもかなり物足りなかったのですが)、彼らの人間臭さ、正妻だけではなく、愛人や馴染みの女たちとも無駄口や軽口を叩くような場面が出て来ない。この大河に感じる物足りなさの一因は、それにもあるでしょう。そもそも高杉とおうのとの出会いさえ登場しないのですから。
『花神』では伊藤俊輔も、足しげく品川の妓楼「土蔵相模」に通いつつそこで戦略を練り、実行に移すための手段を企てていたわけで、それが史実であるかどうかはともかく、大河ドラマにはそのような場も必要であると思われます。創作を入れるのなら、こういう形でこそ入れるべきです。かろうじて久坂と辰路の場面はありましたが、これももう少し色々描いてほしかったですね。『花燃ゆ』の志士たちの場面が、どこか政治がらみ、あるいは策略や駆け引き中心になるのは、こういう遊びの多い部分が登場しないせいもあるかと思われます。
それと、女性の主人公、『花燃ゆ』というタイトルの割には、何か「華」があまりないようにも思えます。結局女性パートも、美和の考えだけで動かしているから、何かせわしなく、どこかぎすぎすした印象も受けます。何も美和があそこまでしゃかりきになって(と、見えてしまうのですが)私はこう思います、と述べる必要はないのです。まして小姓の人事とか、男性の家臣のいる場所にまで出て来たりというのは不自然です。守役の美和という自然体の女性、あるいは妻に手紙を送りつつも、馴染みの女たちを抱く男たちといった人物像が描かれていません。時間の配分をやりくりすれば描けるはずなのですが、志士たちの日常生活を描くのは何か都合が悪いのかとも思ってしまいます。
スポンサーサイト