先日より、『はたらく細胞』本編絡みで投稿をしています。この本編は主に小学生がターゲットで、また学術的な事実とは違うと断られてもいる以上、細胞を登場人物とした擬人化漫画を作りたかったのは理解できます。そしてその方針も、最初の何巻か、特にこの場合はこういう細胞が活躍しますといった、学習漫画的な意味合いも持ってはいたでしょう。
しかしいっそ擬人化するなら、それぞれの細胞キャラの内面的なものを、もっと掘り下げて、一つのストーリーを作り出すやり方もあったと思います-これは寧ろ『はたらく細胞フレンド』の方で行われています。でなければあくまでも細胞の役割を伝えるものと割り切り、かつて浅利義遠氏が描いたように、理科の勉強的な漫画にする方法もあったでしょう。作者の清水茜さんも、この漫画で脚光を浴びることになったため、あるいは他の方法を検討していたにもかかわらず、この路線で行かざるを得なくなったのかとも考えられます。
ちなみに、浅利氏のツイートのリンクを貼っておきます。こちらの方が、マクロファージが大きめに描かれていたりして、本来の細胞のサイズに合わせているのがわかります。
(『24年前の、はたらく細胞・免疫編』とあります。尚ツイートされたのは2018年です)
但しサプレッサー細胞はその後、制御性T細胞に取って代わられるようになります。
『はたらく細胞BLACK』その他スピンオフは、この本編があるからこそ面白いと言った見方もありますが、私としては特にBLACKの場合、このシリーズだけを読んでも、それはそれで面白く感じられたと思います。このBLACKは本編とあまり関連性がなく(内臓や細胞の描写が一部共通)、寧ろ独自色が強めで、実際の身体の生活習慣や薬の服用に細胞たちが影響される点などに、興味を感じるせいもあるかも知れません。その意味ではやはり本編も、舞台となる身体の年齢や体質などを、ある程度決めておいた方がよかったかと思います。
それから『ゲゲゲの鬼太郎』の石動零(いするぎ れい)と、この本編のがん細胞に関して。石動は妖怪狩りを専門とする鬼道衆の末裔ですが、本物の末裔ではなく孤児で、鬼から術を学んだことになっています。人間に対しては正義感を見せるものの、妖怪に対しては冷酷で、戦った妖怪を自分の中に取り込み、次の戦いではその力を戦力として使えるようになります。
ただし取り込み過ぎるとキャパオーバーになり、自らの体に破綻をきたすようになります。第75話『九尾の狐』では、鬼太郎の仲間の妖怪たち(子泣きじじい、砂かけばばあ、一反木綿、ぬりかべ)を取り込んでしまったのはいいのですが、その状態で鬼太郎を敵に回したため、仲間の妖怪に阻止されてしまい、思うように動けなくなります。唐傘がかつて霊毛ちゃんちゃんこを盗んで人間に化けた時、鬼太郎を敵に回したものの、ちゃんちゃんこに縛られて戦えなくなったのと似たものがあります。
この点立場は異なるものの、『はたらく細胞』本編で制御性T細胞に阻まれて、免疫細胞ががん細胞をやっつけられなくなるのとも似ています。零は最終的に、伊吹丸や鬼太郎たち、さらには西洋妖怪の力まで借りて九尾の狐を倒した後、修行のために去って行きます。しかし、鬼太郎を倒すという気持ちはそのままで、この点も、何度もよみがえって来るがん細胞を思わせます。
上記の画像、上が石動零で下ががん細胞です(DVD『ゲゲゲの鬼太郎』及び『はたらく細胞』第5巻より)。無論他のアニメにも似たようなキャラはいるでしょうが、それぞれの悪行(と言うべきか)も合わせて考えると、やはり何となく似ているようにも感じられます。
あと、同じ鬼太郎に出て来るキャラで、名無しもがん細胞に似ていると書いたことがあります。こちらは外見はかなり異なりますが、半妖怪として生まれるはず(実際は生まれる前に死んだ)のキャラで、祝福されない存在であり、悪意と呪詛を持って人間社会に出現し、最後には犬山まなの体を取り込んで、世界征服を目指したという点では、やはりこのがん細胞に似ているとも言えるでしょう。尚この名無しは、最終的にまなに名前を貰って成仏します。
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