今回は、パリを中心とした展開ということで、家康公の解説はお休みです。
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篤太夫は船酔いに苦しみながらも、2か月の船旅を終えてパリに到着する。船は異人たちも多かったが、外国奉行支配組頭田辺太一は、一括りに異人と言うものではないと諫めた。またアレクサンダー・シーボルトが、戦中での通詞を買って出てくれた。幸い洋食は篤太夫の口には合うようだった。また中でも篤太夫は、スエズの掘割(運河)に感銘を受けていた。やがてパリに着いた一行は、街を見下ろし唖然とする。
宿舎のグランドホテルでは通訳のカションが出迎えていたが、引き続きシーボルトが担当することになった。しかし彼は、裏でイギリス外務省と通じていた。2週間後には皇帝ナポレオン3世の謁見があるため、外国方は準備に追われており、篤太夫は出納帳の記入に追われることになった。一方で水戸藩士たちが、昭武に直に口を利いたと言ってウェイターともめており、篤太夫がとりなす。またその頃、薩摩もフランスを訪れていると言われていた。パリ万博の会場を訪れた篤太夫たちは、蒸気機関や数々の物品、そしてエレベーターにも驚いていた。
一行はJAPONと書かれた日本の展示場に赴く物の、その近くにLIOU-KIOU、つまり琉球と書かれた展示場を見つける。中には薩摩切子をはじめ、薩摩関連の品物や島津家の甲冑が展示されていた。何やら日本と薩摩が別の国であるが如きだった。しかもその場にモンブランという人物が現れる。篤太夫は、出発前の福地源一郎の、モンブランは要注意という言葉を思い出していた。モンブランは幕府に申し出を何度もしたが断られ、その結果五代友厚が引き受けてくれたと言う。幕府はこれでは困る、日本と一緒にするようにというが、薩摩側は首を縦に振らなかった。
結局琉球王国ではなく薩摩太守とし、すべてを日本の展示場に置くことで合意するが、この表示にgouvernement(政府)という言葉を入れたため、日本は連邦国家であると新聞に書かれてしまう。しかも田辺がシャンパンを飲み過ぎたなどとも書かれていたが、田辺はこの日は酒は飲んでいなかった。どこかで誰かが邪魔だてをしているようで、さらに新聞には、大君(将軍)は日本の正式な皇帝ではないとも書かれていた。しかし執り行われた謁見式で衣冠姿の昭武は、慶喜の国書を読み上げる。
日本ではロッシュが、フランスの支援の交換条件として生糸を最優して売ってくれと頼み、また、ナポレオン3世のようにやれと付け加える。その後慶喜は各国の公使を招いて夕食会を催し、パークスはサトウに、シーボルトのことについて尋ねる。サトウはうまくやっていると言うが、パークスは慶喜のもと、幕府が持ち直すのではないかと懸念していた。島津久光は四侯会議を開き、主導権を奪い返そうとするが、慶喜は国内の一小事より日本国の大事と言い、カメラを持って来ているので撮影しようと言い出す。
そして血洗島では、平九郎の養子の件が切り出される。平九郎は尾高の家を心配するが、尾高家も侍になりたいのを我慢し、家業に励んでいた平九郎の気持ちを汲んでやりたかった。しかもこれで直参になれるのである。お千代は夫から貰った短剣を見せる。この先何があるかわからないから、形見だと思っていると千代は言い、うたにもそのことを聞かせていると言う。しかしうたでは跡取りになれない。お千代のその言葉もあり、平九郎は渋沢家を継ぐことにした。平九郎が渋沢を継ぐことを知ったていは、同じ苗字でまるで夫婦だにいと言う。
同じ頃、パリでは滞在費用がかさみ始めたため、随行員たちはホテルを出てアパルトマン暮らしを始め、篤太夫は昭武の住まい探しもしていた。これで篤太夫は、通史の山内文次郎に家賃を値切るよう談判を頼むが、それはできぬの一点張りであったため、侍は金に頓着がなさすぎるとこぼす。その時六三郎という男が、ここの住人からポトフを貰ったと言って部屋に持ち込む。篤太夫はこの六三郎を連れて再び出かけ、やっと家賃の交渉に成功する。実はこれも水戸藩士が難癖をつけるが、昭武は気に入ったようだった。
やがてその後一行はパリ見物に出かけ、ナポレオンの墓所や廃兵院、舞踏会などに刺激を受ける。しかしそろそろ滞在の金が尽きようとしていた。幕府でも、パリでのよからぬ噂は知れ渡っていた。またパリの滞在先で一行は、例の借款の件が白紙撤回されたことを知らされる。この頃五代はフランスと幕府の引き離しに成功し、幕府のコンパニ―の夢もついえると目論んでいた。大久保は、慶喜は切れる男だから気を付けるように言うが、五代は、頭はあっても金がないとどうにもならない、後は頼むと言って長崎へ戻る。
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やっとこさ一行はパリに着きますが、通詞として頼りにしていたシーボルト(フランツ・シーボルトの子、イネ・シーボルトの異母弟)は、実はイギリスと通じ合っていました。何せこの時代、イギリスもフランスも、日本国内でのごたごたを利用したいという気持ちはあったはずで、これを見る限り、幕府もちょっと見方が甘いように思えます。そしてこの回、フランスロケも当初予定されていたのでしょうが、何せ今のこの時期行けるわけもなく、VFXを駆使して何とかパリを作ったようですね。パリロケと言えば、『獅子の時代』で徳川昭武一行が、1979年年当時のパリに乗り込むという、斬新なロケをやっていたことがあります。
水戸藩士たちは案の定、日本流を押し通そうとし、コーヒー一杯にまで毒見をする有様です-無論、それが彼らの忠義の証であったことは否定しませんが。ただでさえ慣れない異国の生活で戸惑う篤太夫は、そんな彼らを何とか説得しますが、万博会場に行けば行ったで、日本とは別に琉球王国、実質薩摩の展示場が設けられている始末です。しかも表記のまずさから、日本には2つ政府があると思い込ませることになり、日本は連邦国家である、大君は本当の皇帝ではないと、妨害工作とも取れることが何度も起こりますが、昭武は何とかナポレオン3世に拝謁します。
慶喜によるこの国書、当然源慶喜の名が記されているのですが、この回に関するとあるコメントで、この「源」が不思議だといった意味のものがありました。将軍家は源氏ですから、正式な文書はもちろんこの署名となっています。ただ徳川家は元々藤原氏ではあったようですが、詳しいことは家康公のみぞ知るでしょうか。だから今回はお休みだったのかも知れません。
それから篤太夫、船酔いをしつつも洋食にすぐ慣れる適応能力の高さですが、一方で口にもしていないベーコンを、塩漬け肉だと見破ってしまっています。誰かから事前に教えられていたのでしょうか。またフォークやナイフもよく知らないようですが、コーヒーカップはちゃんと取っ手を持っていますね。しかもクリームを入れて、美味しそうに飲んでいます。これを見て思い出すのが、『JIN-仁-』の野風の結婚式の回です。仁先生は現代からタイムスリップしているから、普通にコーヒーもワインも口にしますが、咲は慣れていないせいもあり、コーヒーの苦さに顔をしかめます。篤太夫はともかく、あの当時の日本人の味覚からすれば、不思議な飲み物ではあったでしょう。
そのコーヒー絡みでもう一つ。篤太夫たちはパリ滞在費が底をつき始めたことから、アパルトマンに移りますが、この時のコーヒーを淹れる仕草も、結構手馴れているように見えます。何だか現代ドラマで、ルームシェアをしている仲間同士が、ダイニングでバリスタやドルチェなどを使って、コーヒーを淹れているようです。この時代の人らしい、西洋の文物に接する際のぎこちなさがあまり感じられず、その点が気になると言えば気になります。 あと六三郎を連れて行った件ですが、この人物なら人に好かれると踏んでのことでしょうか。
そして四侯会議ですが、この大河の幕末史関連シーンにありがちな尺と説明の短さが気になります。一応「徒然」の方でも書こうと思いますが、この会議、確か何日間も続いていますね。またナレでは薩摩が倒幕に踏み切ったとなっています。しかしこの場合、薩摩が政治による慶喜への牽制に見切りをつけ、「武力による」倒幕に踏み切ったと取るべきでしょう。尚この時以降、山内容堂は島津久光と一線を画するようになります。あと慶喜がカメラを持ち込むシーン、これは『西郷どん』にもありました。
それから五代と大久保利通が密談めいたことをやっていますが、正直言ってこの回の中で、ここのシーンが一番大河らしいなと思いました。 四侯会議をもう少し詳しく描いて、その後にこれを持って来れば、いよいよ薩摩が幕府を潰しにかかっているという実感が伴ったはずなのですが。五代の
「頭はあっても金がないとどうにもならない」
言い得て妙です。
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