文久2(1862)年4月の寺田屋事件後、この件を止められなかった大久保一蔵は自ら謹慎を願い出、また吉之助は徳之島、村田新八は喜界島へ流罪となります。今回は奄美への配流とは違い、罪人としての扱いで、もちろん扶持米もありませんでした。徳之島で愛加那たちに会い、久々に楽しい日々を過ごしたのも束の間、今度は沖永良部島へ流されることになります。ここは薩摩からはるかに遠く、重罪人が流される島でした。また「囲いに召しこめ」との命に従い、屋外の牢に入れられることになります。
沖永良部島での川口雪篷
その吉之助に近づいて来たのが川口雪篷です。この人は『那波烈翁(ナポレオン)伝』をいつも懐に入れていました。また吉之助は、土持家の人々から食事の世話を受けていました。実は代官所からは、罪人には麦と塩だけを与えるように言い渡されていたにもかかわらず、もうすぐ切腹になるだろうということへの憐みから、様々な料理を持ち寄っていたのです。雪篷から事実を聞かされた吉之助は、塩と麦だけを口にし、海江田武次と大山格之助からの手紙が、一蔵の悪口で埋め尽くされていようとも彼を信じる覚悟でした。
牢の中で吉之助はやせ細り、ついに台風の翌朝、弱って倒れているのを助けられます。風雨が激しい中で吉之助は、自分のこのような声を耳にしていました。
「おはんにしかできんこつが、まだあっとじゃ。生きろ」
そして吉之助は土持家の人々に助けられ、家の中の牢に入れられることになります。「囲いに召しこめ」とはあっても、屋外とは規定されていなかったためで、ここでようやく吉之助は体力を回復し、島の子供たちに学問を教えることになります。当初は島役人の子供たちと家人(ヤンチュ)の子供たちとの間にあったわだかまりも、吉之助は否定し、子供たちに等しく学問を教えることになります。
囲い越しに子供たちに学問を教える吉之助
一方で薩摩ですが、この前年に久光は京へ乗り込んだ後、さらに江戸へ向かいます。幕府は朝廷から政を改めるように言われており、かつてない重大問題に直面します。結局安政の大獄で追放されていた一橋慶喜を将軍職後見に、そして松平春嶽を政事総裁職に任命します。勢いに乗る久光ですが、慶喜との関係はいいとは言えず、兄とは似ても似つかぬ芋だとこきおろします。慶喜は実は吉之助と話がしたかったようです。
その後、薩摩へ戻る途中に生麦事件が起き、英国側は賠償金を幕府に請求します。ところが慶喜は薩摩が勝手にやったことだと言い、ほぼ1年後、幕府の態度に業を煮やした英国は、海軍を薩摩沖に派遣します。この時一蔵は、英国が悪いと主張して譲らず、一蔵と小松帯刀が戦準備を任されることになりました。
また生麦事件で英国人に立ち向かった、海江田や楢原喜左衛門も結果的に切腹を免れることになります。同じ頃、沖永良部島では島民たちが、英国の攻撃を受けるのではないかと代官の黒葛原源助に詰め寄ります。
薩英戦争直前の鶴丸城での一蔵、小松、久光(左から右)
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