もう8月も半ばです。なぜこのようなことを書くのかというと、『花燃ゆ』の最終回放送まであと4か月となり、3分の2の放送が修了しました。この『花燃ゆ』を振り返って改めて思うこと、そして、大河ドラマの主人公のあり方に関しても書きたいと思います。
『花燃ゆ』が文(美和)視点ばかりで面白くないといわれつつも、舞台が杉家から萩城の奥に代わっただけで、どうも本質的な部分は変わっていないように見えます。無論劇的に変えるというのは難しいと思います、制作陣やキャストを丸ごと変えるわけには行きませんから。しかしいくらか描写を変えるとか、編集を工夫するなどで、もう少し広く受け入れられるようには思えます。表現が適切でないかもしれませんが、嘘に嘘を重ねるということわざがあります。一度嘘をつくと、それが嘘とばれないために別の嘘をつくことになる、そういう意味ですが、創作=フィクションの場合も似たようなことがいえます。
一旦ある部分をフィクションにしてしまうと、それをカバーするためにどんどんフィクションの部分が膨らんで、史実を圧迫して行くような感じになるわけです。たとえば文のキャラにかなりフィクションを盛り込むと、彼女の行動や周囲にもフィクションが多くなり、結果、史実がかなりアレンジされてしまう。今も、奥女中である文を引き立たせるために、史実を切り貼りしているようなところがあります。これもドラマを面白くするための方法ではありますが、あまり多用されると面白みを感じなくなります。
女性を主人公にするというのは、歴史上かなり有名な存在であっても、その人1人だけではやはりドラマを作りにくいため、夫婦で主役ということが多くなっています。無論夫婦で構わないと思います。やはり大河は50話ある以上、そのすべてで主役を張る必要があるからです。さもなくば群像劇にして、何人かの主役級人物を揃え、必ずその1人が主役となるようにして作って行けば、それなりに納まりがよくなります。『花神』はそうでしたし、正直いって『花燃ゆ』にもそれを望んでいました。そうならなかったのが残念です。
以前にも書いたことですが、個人的には、やはり男性の主人公の方が大河らしいとは思います。今は男女交互に主人公を配していますが、その必要はあるでしょうか。どうしても女性の方が、男性に比べて史料の裏付けがある人物が限られるため、1年を通じてドラマ化するのは難しいでしょう。通常は男性中心で、時々女性を入れるようなやり方でいいでしょうし、女性を主役の1人とする場合は
*夫婦で主人公
*群像劇
このいずれかがいいでしょうね。
それと、今回の『花燃ゆ』ではっきりしたことですが、脚本家にももっと歴史を調べてほしいし、できれば、原作か原案がある方が望ましいです。『篤姫』の田渕久美子さんも、原作がある『篤姫』はあれだけの脚本が書けたのに、原作なしの『江』になると、どうしてもファンタジー色が強くなったように、やはり原作または原案は制作の上で重きを置くべき点といえます。今は観光業界ともタイアップしているため、それぞれの地域で、郷土の英雄的な人物の推薦も多いようですが、やはり全国的に知られている人の方が数字を取れるかと思われます。
また最近は、木曜時代劇にいい物が多くなっています。本来大河に比べると、もう少し柔かめな路線だったのですが、かなり本格的な時代劇もありますし、1クールで終わる物やシリーズ物が多いため、あまりネタ切れ感なしに楽しめるというのもメリットでしょう。それとBS時代劇の『一路』を今観ていますが、これも結構面白いです。このBS時代劇を地上波に持って来て、大河と木曜時代劇とに対抗させるという方法もあるでしょう。大河も本来、競合相手がいた方がもっと伸びるだろうなと思われますので。
それと、『花燃ゆ』は視聴率15パーセント越えが、今までに2回しかありません。浮沈が激しいというよりは、変化の少ない視聴率が横ばい状態で続いているといった状態です。視聴率のみがすべてではないのかもしれませんが、似たような状況がやはり続くということは、内容的に似通ったものが多いということでしょう。それこそ蛤御門の変や功山寺挙兵の回を史実だけで描いていれば、もうちょっと取れたような気もします。
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