第11回、いよいよ栄一が攘夷活動に乗り出します。そして家康公、今回は「我が江戸幕府」の最後の将軍となった、一橋慶喜と将軍後見職についてです。
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文久2(1862)年の1月、栄一は長七郎を追って熊谷まで行く。駆け込んで来た栄一に長七郎は驚くが、栄一は河野が死んだこと、坂下門外の変に連座した者が今なお捜索されていることを伝え、無駄死にはするなと諭す。その後長七郎は京に潜伏することになる。栄一は血洗島に戻り、やがて長男の市太郎も生まれた。仕事に精を出し、子供を可愛がるよき父親でもあったことから、渋沢家の人々も、もう攘夷の真似事などはするまいと一安心する。ところが栄一は、藍玉の売上金をこっそり持ち出していたのである。
その頃幕府では、4年近くの謹慎を解かれた一橋慶喜が、将軍後継役という名目で幕政に復帰した。これは、薩摩藩の国富である島津久光の思惑でもあった。慶喜は一橋家の屋敷で、徳信院と美賀君、そして家臣を前にこの役職に就いたことを報告する。そして松平春嶽も謹慎を解かれるが、久光はこの春嶽、慶喜と共に薩摩藩邸で話し合い、攘夷決行を叫び、さらには家茂を上洛させて孝明天皇の攘夷の意志を実現させようとする。しかし慶喜は、最早攘夷鎖国などできるわけもなく、父斉昭の攘夷論も、国を辱められるのが嫌だっただけだと主張し、久光の意見は単なる妄想だと言う。
実際攘夷をけしかけて異国との戦に巻き込み、幕府を潰すという荒療治的な手段は、尾高惇忠も唱えていた。慶喜はその後自邸に戻り、将軍後見職と言っても薩摩の意に沿ったものであり、幕府もまた、自分を対朝廷の人材として使おうとしているだけだと美香君に洩らす。そしてその年の秋、コロリが再び猛威を振るったのみならず、麻疹が大流行し、千代と市太郎もこれに感染する。これがもとで市太郎は幼い命を奪われ、栄一は慟哭する。栄一の母ゑいも子を亡くしており、どんな偉い殿さまだって、沢山のお子のうち成長するのはほんのわずかだと千代を慰める。
栄一たちは密かに、横浜にある異人館の焼き打ちを企んでいた。まず直訴の体を装って高崎城を乗っ取り、鎌倉街道を通って攻め込むというもので、惇忠の弟平太郎も参加を望むが、どちらにしてもこのようなことをするからには、血洗島に戻れなくなる恐れもあり、家の為に平太郎には残れと惇忠は諭す。そのような折、京では天誅が横行するようになり、公家の用人である賀川肇も斬られて、その首が京にいる慶喜の許に届けられる。
慶喜は京の治安の悪さに唖然とする。また攘夷を唱える朝廷は幕府をせっつくが、その幕府は生麦事件による賠償金で四苦八苦していた。そのような中、平岡円四郎が再び慶喜の許へと戻って来て、将軍後見職とは貧乏くじだとずけずけと言う。しかし京のみならず、国内の情勢は混沌としていた。薩摩は生麦事件に端を発した薩英戦争、長州は下関戦争で列強の恐ろしさを知り、また攘夷を唱える三条実美らの公家、ひいては志士たちをも追放する、所謂八月十八日の政変が起こる。
しかし栄一と喜作は江戸に出て武器を調達していた。武具店の主は、武士ではない栄一たちの気概に賛同し、蔵の刀を見せてくれる。それらの武器は、すべて尾高家に送り込まれた。またとある居酒屋で、真田範之助と飲んでいた時に、栄一と喜作は藤田小四郎なる武士と近づきになる。小四郎は斉昭亡き後の水戸に悲観的だったが、小四郎の父東湖の本を読んだ栄一たちに諫められ、立ち直ろうとする。
この年の8月、栄一は血洗島に戻る。この時千代は2人目の子を出産していた。女の子で名はうたと名付けられたが、栄一はどこか屈託げにしていた。そしてついに、父に自分を勘当してくれと言う。日本はこのままではいけない、帰る必要があるが、それをすることは家にも迷惑をかけることになる、ていに婿養子を取ってくれと栄一は懇願する。また千代も頼み込んでくれたため、結局市郎右衛門は、自分のやりたいことをやれと言う。
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既に国内の一部では、急進的な攘夷は姿を消しつつありましたが、栄一たちは横浜の外国人居留地を襲撃する計画を実行しようとしていました。その決行日は文久3(1863)年の冬至、つまり空気が乾燥して風が強く、一番焼き打ちに適した日の実行となり、着々と準備を進めて行きます。江戸の武具商人も力を貸してくれ、購入した刀などは尾高家の土蔵にしまわれました。
無論彼らはこれこそ正義であると信じ込んでいたのでしょうが、これはどう考えても外観誘致にしか見えないのですが…選挙という制度もない以上、少々強引な方法であってもことを起こさざるを得なかったのはわかりますが、肝心の幕府を倒した後、具体的にどのようにするかがまだ見えて来ません。天子様を戴くというのも、その当時はまだ曖昧模糊とした発想ではありました。
それとこれは何度か書いていますが、武士がやはり否定的に描かれているように見えます。無論今の幕府ではどうにもならない、武士の世は終わるという見方も存在していたにせよ、殊更にネガティブな印象も受けます。それと当時の政治情勢、薩長と列強の戦いとか、七卿の都落ちなどはナレで説明されたのみですが、これはちょっと簡単すぎやしないでしょうか。
和宮を出したりしている割には、朝廷の思惑などの描写が今一つと思われますし、その薩長も今後絡んでくるのですから、もう少し尺を割いてもよかったでしょう。そもそも一口に攘夷と言っても、破約攘夷と大攘夷とがあるわけですし、その違いもまた明確にされていいかと思います。また久光、国父様の「攘夷」は、薩英戦争で方向転換せざるをえなくなりました。
それから栄一の長男の市太郎が、麻疹で短い生涯を閉じます。この当時乳幼児の死亡率は元々高く、ゑいが言うように、偉い殿様のお子でさえも、成人するのはわずかという有様でした。ちなみに第12代将軍徳川家慶は、正室や側室との間に14男13女を儲けながらも、その中で成人したのは家定のみでした。子供の成長を七五三で祝う所以でもあります。
またこの時期はコレラの第2波が来たのに加え、麻疹もかなり流行したようです。もちろん当時ワクチンはなく、一度罹ることで免疫がつく病気とされていました。ただこの麻疹のウイルスは、リンパ組織で増殖するため免疫機能をかなり弱らせ、その意味で重症化しやすい病気でもあります。ちなみに『はたらく細胞フレンド』で、キラーT細胞たちが麻疹ウイルスと戦うのですが、相手がかなり強力なため負傷し、入院する場面が登場します。これは関連投稿にて。
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