叡山の虐殺は凄惨なものでした。元々信長は非合理的なものを嫌うたちで。僧侶たちも彼に取っては、いわば手足のついた怪物と言うべき存在でした。
「神仏どもは怠慢にして彼等を地獄に堕すことをおこたった。神仏・坊主、ともに殺せ。信長がかわって地獄がどういうものかを見せてやらんず」
信長の命令は常に具体的で、洞窟の中もくまなく探して、逃げ込んだ僧たちを殺すうように命じます。またあちこちで猛煙が上がり、光秀も呼吸することさえもが困難になる有様でした。
信長に取って、叡山は正に「戦場」でした。光秀も信長の家臣として命令に従ったものの、女や、高僧たちをも殺せと命じられます。高僧の中には光秀の知り合いの僧もいたため、光秀に取っては信長があたかも魔神のように見え、この時ほど信長を憎んだこともありませんでした。しかし信長にしてみれば、彼ら高僧の存在こそが、僧たちの堕落を覆い隠していたと言うべきものでした。ついに元亀2(1571)年9月12日、叡山は完全に焼き払われ、僧侶を含む男女2,000人が殺されてこの「虐殺」は幕を閉じます。
この後、光秀は信長から
「坂本城主になれ」
と命じられます。坂本は叡山の近江側の山麓にあり、信長は光秀に旧叡山領を管理させ、南近江と京の守りを任せようとしたのです。また領地としては、石高の高い滋賀郡を与えました。秀吉でさえ当時はこれほどの待遇を受けておらず、異例の大抜擢であり、信長は光秀とは反りが合わないながらも、その能力を高く評価していました。光秀は琵琶湖が湖賊の巣窟であることから、この城を水城にして制「海」権を得ようとしたのです。
建築材料は、坂本にあるかつての叡山の旧寺院の物を利用することにしました。元々は僧侶たちは延暦寺に住むべきでしたが、山上の湿気が強く体によくないことから、里坊と呼ばれる坂本の住居に住んでいました。工事中、光秀は家族を呼び寄せて坂本に住まわせます。光秀は何と言っても妻のお槇を愛しており、そのお槇は里坊に住んでみて、まるで大名の館のようだと言います。光秀は苦笑します。今となっては、彼は既に城と領地を持つ大名なのですが、所謂守護大名でもなく、また新興の戦国大名でもない上に、戦国大名の信長の家来でもあり、お槇は夫が大名である実感がわきませんでした。
お槇は言います。
「弾正忠(信長)さまが上にいらっしゃるかぎり、あなた様はお大名ではありますまい」
光秀はこの言葉を耳にして複雑な気持ちになり、お槇に、滅多なことを他人の前で言うなとたしなめます。お槇は無論そのようなことはないと言い、光秀も信長は、将軍の次に位置する准将軍のようなものだと言って、ならば我らも准大名であろうと言います。無論別に本物の大名でないとしても、長年苦労した末に得たこの地位を、妻と共に喜びたいというのが光秀の本音でした。
しかし光秀は多忙でした。無論将軍義昭のもとにも伺候せねばならず、また工事の進捗を見て回る必要もありました。そんな折、琵琶湖畔の唐崎にある、古歌にも歌われた松を植えたいと思い、松探しにかなりの情熱を注ぎます。このため人数を割き、いい松を得ようとするも、彼らの一部が浅井軍に襲撃されてしまいます。しかし光秀は諦めるどころか、秀吉に頼んで兵を出して貰うことにしました。秀吉も、このような状況下なのにと驚くのですが、結局100人ばかりの兵を貸してくれます。その松を運び出そうとした時、要塞でも作られると思ったのか、浅井の部隊が銃撃を加えて来ます。
叡山の焼き打ち、この日は宣教師が「聖ミッセル(ミカエル)の日」と記録し、この焼き打ちを喜んでいます。これは9月29日の祭日のことでミケルマスなどとも呼ばれています。それを信長が知っていたかどうかはともかく、彼に取っての一大戦争が終わり、この地を明智光秀に任せます。信長という人物は、自分と相性が悪くても、能力のある人物なら取り立てて使うところがあり、無論光秀もそれを喜びます。そして城の設計に取り掛かり、またお槇や子供たちを呼び寄せて坂本に住まわせます。
しかしお槇の何気ない一言、
「信長の下にいる限り大名ではない」
といった意味合いの言葉に、光秀は過剰に反応します。元々この人は、いささか小心過ぎる嫌いはありました。その一方でこちらもやはり変人と言うべきなのか、城に植えるための松を探させ、ついには浅井軍との小競り合いまで起こしてしまいます。信長の家臣である以上、不本意ながらも叡山焼き打ちという「中世」を滅ぼす行為に出た光秀ですが、その後、それとは対極にあると言うべき、唐崎の松に代表される復古趣味への思いに、何らかの癒しを求めていたのでしょうか。
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