結局元亀元(1570)年8月30日、義昭は出陣します。織田軍の要塞である中ノ島城に翻る、足利の二ツ引両の白旗を見て、織田軍の士気は上がり、光秀は感無量でした。尚この時光秀は、既に織田軍の一手の大将となっていました。信長も、光秀を気に入っているとは言えなくとも、その能力、とりわけ鉄砲の扱いのうまさを高く買っていました。実際この摂津の戦場で光秀は奮戦しましたが、後年、光秀の娘婿である細川忠興が語ったところによれば、この人物は
「多少身をかばう傾向がある」
つまり、他の織田家家臣に見られる猪突猛進さが見られませんでした。
そのうち北の方で、再び浅井・朝倉の動きが活発になります。一度は壊滅しかけたものの、再び兵を動かせるまでになり、南下して信長に脅威を与えるようです。しかも情報が曖昧で、信長は光秀に偵察させることにします。実際この時、諜報活動ができるのは光秀か秀吉のどちらかでした。しかもこの偵察は、光秀に一軍を率いさせて強行侵入させるもので、いわば威力偵察と言うべきものでした。翌日光秀は京に入り、先発していた偵察員たちの報告を聞きますが、どうやら人々は信長への信用を失い、さらには義昭も信長を見限っているという噂も流れていました。
実は義昭は、摂津から既に京へ戻っていました。義昭の出陣が功を奏したと見て、信長が引き下がらせたのでした。光秀は、この噂の出どころは義昭自身かも知れぬと思いつつ、近江へ馬を走らせます。そこで敗軍の兵たちに出会いますが、彼らは皆織田軍が近江守備のために置いた兵で、織田の占領地を崩し、宇佐山城を落としていました。その守備隊長だった信長の実弟、信治そして森可は戦死したと聞き、光秀はあらぬ噂を避けるべく彼らを自軍に加えて、織田の拠点の多くが占領、または攻撃されているのを知ります。
光秀は急ぎ近江を出て、信長にこのことを知らせます。信長は
「デアルカ」
と言い、兵を集めて近江への戦闘行動を開始します。しかし浅井・朝倉側は、今度は比叡山に本営を構えます。さらに小規模な攻撃を繰り返すのみで、大規模な戦闘は望めそうにありませんでした。信長は叡山を包囲して、拠点を宇佐山城に移します。しかしこのままでは織田軍は叡山に釘付けであるため、その間に武田や三好党が軍事行動に出る可能性は十分にありました。
しかも信長の同盟者といえば、三河の徳川家康のみでした。家康の篤実さは織田家中でも広く知られており、この期に及んで裏切ることもなく、恐らく織田家とは、一蓮托生の運命を辿るのだろうと光秀も思っていました。その光秀は、3日に1度信長の本陣に行き、下知を貰うのですが、信長は泰然自若とはしておらず、寧ろ気ぜわしく動き回っていました。敵に対して陣地攻撃を仕掛けるもうまく行かず、しかし考えられる限りの芸を試み、挑戦状を送りつけたりもしたものの、敵方の嘲笑を買ったのみに終わります。
ところで信長が試みた芸の一つに、叡山延暦寺への直接交渉がありました。これにより、浅井・朝倉と手を切るように申し入れ、追い出しに協力すれば、多少の寺領を寄進するが、協力しなければ三千の堂塔僧房を悉く焼くとまで詰め寄ります。しかし寺にしてみれば、浅井・朝倉は檀家であり、その申し入れは受け入れがたいとはねつけます。尚延暦寺は山法師(僧兵)で有名で、しばしば地上の権力と対立しており、俗化も指摘されていました。戦国時代に入って多少はその勢いも衰えますが、しかしそれでもなお多くの僧を抱え、堂々たるものでした。
将軍の親征も功を奏し、摂津での戦いが収まったと思ったら、今度は北の方で浅井・朝倉軍が動き出します。信長にしてみれば全方位から攻撃を仕掛けられているようなもので、実際義昭がけしかけて、周辺の大名たちを動かした以上、当然ともいえるものでした。光秀は信長の命で偵察を行いますが、近江で朝倉や浅井が織田の拠点を占領かつ攻撃し、織田の守備隊の兵たちが敗走してくるのを目にします。これを聞いた信長は近江へと進軍しますが、今度は敵軍が本営を叡山に移します。
信長は陣地攻撃をはじめ、最早空しいと思える作戦を次々に試しますが、その中に延暦寺との直接交渉がありました。要は浅井と朝倉の追放への協力で、無論信長の方は、協力すれば寺に寄進を行うが、断れば山を焼くと脅しをかけていました、しかし寺の方は、浅井と朝倉は檀家であるからと断ります。尚この延暦寺は、昔から山法師が権力と対立したことでも有名で、山もかなり俗化していたとされています。戦国期に入ってからやや衰えはしても、その勢力は絶大だったのです。
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