光秀はついに義昭を見限り、信長に密書を送ることを決めます。何せ若い頃の夢であった室町幕府再興を、自らの手で壊すようなこの振る舞いに、光秀自身散々悩んではいました。しかし義昭は将軍の器ではなく、信長が自分が想像していた以上の人物であることを、光秀も悟ったわけです。そして信長は、将軍ではなく天子を立てようとしていました。光秀は秀吉に比べて、自分が優柔不断であるとを弥平次に打ち明けますが、弥平次は、所詮は秀吉は下郎の上がりと答えます。
やがて弥平次は岐阜に発ち、信長に密書を渡します。書を読んだ信長は、この頃徳川と姓を改めた家康の居城、浜松城へ福富平左衛門を使いにやります。家康は既に何の用であるかを知らされており、信長共々上洛することになります。しかし信長の重臣たちは、具体的に何の目的であるかがわからず、また将軍に拝謁なのであろうと考えていました。果たして信長は、出発間際になって将軍館落成の祝いを行うことを明らかにし、同盟関係にある諸将に、できるだけ賑々しくと通達します。
ちなみにこの同盟関係の諸将とは
徳川家康(三河)
姉小路中納言(飛騨)
北畠中将(伊勢)
三好義継(河内)
松永久秀(大和)
といった面々でした。落成祝いは4月14日に決まりましたが、信長の出発は2月25日であり、なぜこのように早く発つのかを、重臣たちも不審に思います。しかも信長はかなりゆっくりと旅路を進みます。途中常楽寺にしばらく滞在しますが、ここは後に信長自身が安土城を築く場所です。
信長の兵たちは、主君が遊山の目的で馬を進めていることを知ります。さらに信長は、ここで角力の興行を行います。信長自身少年のころから角力好きであり、集まった力士たちの中から、特に強い者2人をお抱えとして、彼らに角力奉行を命じます。このため2人の郷里である村の者たちが、踊りながら信長の宿まで礼を言いにやって来ます。この時まだ戦乱の世は収まっておらず、その中でのこの興行であるだけに、人々の目には信長のやっていることが殊の外鮮やかに映りました。
3月4日、常楽寺を発った信長一行は京へ入り、医者の半井驢庵の家を宿とします。光秀は慌てて準備を整えますが、この驢庵は天子の侍医であり、また将軍家や富豪も患家であったことから、富裕でしかもそこそこ広い屋敷に住んでもいました。そのため信長に宿を提供できたのですが、実はこの人は茶人でもあり、一流の茶道具を数多く所持してもいました。茶好きの信長が驢庵の屋敷に泊まりたがったのは、このためであったようです。やがて家康も京に入り、織田家の大名小名たちも続々入洛して、落成行事が行われ、能の興行なども行われました。
しかし信長の目的は別なところにありました。その数日後、信長は琵琶湖畔を北へ向かい、越前の手筒城を攻撃します。越前国種の朝倉義景は寝耳に水の状態で、防衛するのもおぼつかない有様でした。角力の興行も落成祝いも、すべては世の中を欺くための信長の戦略であったことに、光秀は呆然たる思いを抱きます。義昭を直接討つのではなく、その同盟関係にある朝倉を討ち取ろうとしたわけです。
ついに光秀は義昭を裏切る行動に出ます。密書を受け取った信長は、同盟関係にある諸将と共に、将軍館落成祝いの名目で上洛し、その途中角力を楽しんだりもします。しかし一見のどかな、単なる上洛と見えるこの行動の裏で、信長は打倒義昭を目論んでいました。しかも義昭を直接討つのではなく、義昭自身が密かに同盟しており、信長包囲網を築いていた朝倉義景を討ち取る作戦に出たのです。
ところで今回は半井驢庵が出て来ます。京の医者で、天子や将軍とも近い人物ですが、初代は天文年間に没しているため、その子の二代目の驢庵でしょうか。この驢庵の驢の字ですが、初代が明の正徳帝の病を治したことにより、2頭贈られた驢馬の内、1頭を後柏原天皇に献上したためとされています。この点から思うに、『麒麟がくる』の東庵は、この驢庵をモデルにした方がよかったのではないでしょうか。無論その場合、あちこちに簡単に出かけるというわけには行かないでしょうが。
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