お慶を得た足利義昭ですが、自分に幕府を開かせない信長に、次第に不満を募らせるようになります。そして義昭は閨の中で、信玄や謙信などは信長より強く、しかも将軍を心から尊敬していると言い、しかも強い犬=武将も弱い犬もいて、どの犬を引っ張って来るかは自分次第であると大言壮語します。しかし義昭の言葉は、どこか泣き言のようでもありました。その信長は、将軍館ができあがると、伊勢攻略のためすぐ戻ると言い出します。義昭は都の花は済んだが、葉桜もひとしおと言うのにと信長を引き止めますが、信長は風流を楽しむために上洛したわけではありませんでした。
何だかんだ言いつつ信長を当てにしている義昭は、信長を門前まで見送るという、将軍としては異例の行動に出ます。また何事か起こりはしないかと、不安でたまらないのです。そういう義昭を、光秀は一種の哀しみを帯びた目で見つめます。恐らくこれと似た気持ちを持ちうる人物は、他には細川藤孝位でした。自分たちが担いだ義昭という将軍は、あまりにも頼りない存在に映ったでしょう。
一方で信長が京を去る時、京都守護職を残しておく必要があり、それには当然光秀がなるのであろうと、公卿や幕臣たちは噂していました。実際光秀は文武両道にひいでており、それが京の人々に受け入れられているため、こういう光秀待望論が出て来ても不思議ではなかったのです。信長も自分の家臣への期待は喜ばしいことでしたが、元々信長は光秀のような人物を好まず、
「からりとした性格の、粗野ながらも実直で律儀な武辺者」
を好んでいました。
光秀はこのことについて、義昭に口添えして貰うつもりでした。信長はそれを義昭の口から聞き、さらには朝廷からも、王城守護の任に堪えうる者をとどめるように言われており、確かに光秀はこの場合適材ではあるものの、一方で、あまりに京の人々に愛され過ぎており、これはリスクが大きいと言えました。かつて源義経が朝廷に愛され過ぎ、鎌倉幕府と対立した例もあったことから、いっそのこと光秀とは違ったタイプの人物を置く予定で、その人物は既に信長の意中にありました。
信長はまず朝廷にその人物の名を知らせ、ついで義昭にも代官を決めたことを伝えます。その人物の名は
「木下藤吉郎秀吉」
でした。氏も素性も知れぬと不満げな義昭に、信長は、秀吉の実力を自分は知っていると言い、義昭の口を封じてしまいます。しかしこの人選は、実に意外なものではありました。仮に光秀が選ばれずとも、織田家譜代の者が選ばれていれば、それはそれで義昭も納得できるものだったのです。
もちろん光秀に取ってもこれは意外でした。無論秀吉の軍才や機略は評価していましたが、それでも自分以上のものであるとは思わず、自由闊達な性格も、光秀には好ましいものとは映らなかったのです。光秀に取ってこのような秀吉の性格は、無知かつ無教養を象徴するものでした。また秀吉の意を汲むことに長け、抜け目なく、追従を言うこともいとわない点も、光秀の目にはよからぬことと移っており、宿陣に戻ってから、弥平次に不快なことがあった旨を告げます。
第十五代室町幕府将軍、足利義昭は閨の中では大それたことを言いますが、その実何もかもを信長に頼りきっていました。皮肉なことに、光秀もその後妻のお槇にのみは、大言壮語を吐くようになります。信長の管理下でなければ動けないという点で、両名はかなり似通っています。そして義昭は信長を討とうと包囲網を築き、この人物を追い詰めようとしますが、返り討ちに遭ってしまいます。光秀に関しては、最早言うまでもないでしょう。
そして秀吉の、京都守護職への抜擢です。光秀でもなく、織田家の重臣でもない、兵卒上がりのこの人物が選ばれたことについて、義昭や他の京の人物がどれほど驚いたかは想像に難くありません。しかしこの秀吉こそ、光秀とも織田家譜代の家臣とも違う面を持ち合わせており、それゆえ信長が最も信頼する人物でもありました。しかし光秀も頭では理解しても、彼のプライドが秀吉の人選を認めるはずもなく、気が晴れぬまま宿陣に戻ります。
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