光秀は織田家に仕えるようになってから、信長という人物について様々な話を同僚から聞きます。その人物像たるや、とても大名の子という印象ではありませんでした。通常大名の子というのは、様々な制約の中で暮らし、家臣にもそう物を言うわけではなく、日常生活は側近しか知らないわけですが、信長の場合は領内の津島村の盆踊りに女装して出かけて行ったり、お礼にやって来た村の者をいちいち評価したりし、それが光秀には軽々しい人物と映ります。
また信長がある古池のそばを通り、その池に大蛇(おろち)がいると聞かされます。信長は常々、目に見えざるものの存在を否定し、その大蛇がいるかどうかを実証すべく、池の水を掻き出させます。しかしとても底までは掻き出せず、自身が池に潜って底まで見極め、大蛇などいないことを確信します。信長のこういうやり方は、普通の人間とはその発想の根源からして違うようで、光秀はそのことを肝に銘じておく必要がありました。
さらに信長は神仏についても否定的でした。また道三も神仏に対しては不遜ながら、その存在をうまく利用して、信じる者の弱さに付け込んだと言えます。光秀は神仏のみにすがる人物ではないものの、世間一般でいう常識人であり、その意味では敬虔な人物でした。光秀が恐れたのは、神仏に対する崇敬の念がない人物が、今後天皇や将軍といった、いわば尊貴の血に対してどのように接するかであり、それを思えば、将軍義昭もまた自身のための道具であるに過ぎず、将来的に義昭を捨てる可能性もありました。
いよいよ織田家の家臣となり、信長という風変わりな主君のことを色々見聞きすることで、光秀もまたそれに対する心構えをする必要がありました。少なくとも、今まで自分が仕えて来た人物とはかなり異なっており、その態度は寧ろ熾烈で、常に実証を重んじる人物でもありました。ただ将軍義昭を擁立したのはいいものの、その将軍もまた信長に取っては単なる道具であり、時期が来たら捨て去るのではないかと、光秀は懸念します。
なおこの信長の描写ですが、女装して盆踊りに行くというのは、おなじ司馬氏の『峠』の主人公、河合継之助を連想させます。この人物も妹、結婚してからは妻の浴衣を着て頬かむりで髷を隠し、母上には黙ってろと言って出かけて行くのですが、信長ほどの変人ではありませんでした。また池の大蛇の件、これは『麒麟がくる』でも出て来ますが、この場合は村人に協力したいという意味であり、大蛇がいるかいないかをこの目で確かめるのが目的ではなく、その点でこの2つの大河の信長像は、やはりかなり異なるようです。
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