若狭を発った足利義昭は、仮御所である美濃の立政(りゅうしょう)寺に落ち着きます。美濃入りの日は朝から快晴で、城下の人々は公方晴れであると騒ぎ、公方の使い古しの湯を欲しがる者まで現れます。公方が入浴した後の湯は諸病に効くと言われていたためですが、無論信長自身は唯物論者であるため、そのようなことは信じていませんでした。ただ義昭が来る嬉しさから、日課である明け方の乗馬で、一時間ばかり狂ったように馬を走らせ続けており、この時点では信長もまだ一介の田舎侍であったと言えます。
公方を美濃に呼ぶというのは、道三もなしえなかったことであり、これで美濃の人心も落ち着くであろうと信長は読んでいました。正午過ぎに関ヶ原まで義昭一行を出迎えに行った信長は、立政寺に義昭を招き入れ、別室で大紋に着替えながら、光秀を呼んで「教えろ」と命じます。この言葉の短さは信長の癖でしたが、光秀は何のことやらわかりません。すると渡場にいた木下藤吉郎が、拝謁の礼式を教えろということだと囁き。光秀は室町式の作法を教えます。
この信長の言葉の短さは、よほど機転が利いているとか、長年仕えているとかでなければ正直わかりにくいものでした。この時の藤吉郎、つまり秀吉は前者であったかと思われます。しかも家臣がその意味を即座に理解しないと苛々するわけで、光秀もつい声高になり、あわてて作法を教えることになります。まず廊下に入り、三度入れと言われて初めて、膝をそろりとにじり入れるのだと光秀は教え、信長はその通りに振舞います。
義昭のそばには、もちろん細川藤孝もいました。この藤孝も後に信長に仕えることになるのですが、それはともかく。信長の献上品は
太刀一振り
葦毛馬一匹
鎧二領
沈香一器
縮緬百反
鳥目(ちょうもく、銭のこと)千貫
でした。義昭は「殊勝である」と礼を述べますが、義昭自身寺院育ちのため、公方としての作法は藤孝から教えられたものであり、光秀から作法を習った信長とそう違いはありませんした。
そしてこの時義昭は作法を破って、信長に感謝のことばもないと直々に声をかけ、守護神のように思うとまで言います。この手の大げさな表現は義昭の癖でした。その義昭はいつ京に戻れるかと尋ねます。数年はかかるかと思っていたのですが、信長の言葉は意外なものでした。来月か再来月であると言うのです。三好・松永勢を討伐し、前将軍の恨みを晴らし、さらに義昭を征夷大将軍とするという信長に、義昭は喜びを隠しきれません。しかもこの年の9月に信長は3万5千の軍を率い、西へと向かって、本格的な天下統一が始まります。
原作では光秀が家臣となり、光秀と信長の登場場面が入れ替わるようになります。若狭を出発した義昭を美濃に迎え入れた信長は、その後間もなくこの将軍候補を擁して京へ上ることになります。義昭は、この信長の素早さに喜びを隠しきれず、その様子は傍から見ていて軽率とも思えるほどでした。一方で信長の性格や性癖がここで描かれていますが、合理主義者、唯物論者であると同時に言葉を端折る癖があり、この癖には光秀はついて行けず、藤吉郎(秀吉)であれば理解できる辺り、この3人のその後を何やら暗示するものがあります。しかし義昭を迎えに行ったのが、あの関ヶ原なのですね。
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