信長が岐阜城で光秀に会ったその1年後、清須城から岐阜城まで家臣団の移動が行われます。織田の家臣団の甲冑はその華麗さで有名で、鉄砲も多く、その眺めは壮観でした。一方濃姫を始め女性たちは小牧城から出立し、やがてすべてが岐阜城に入ります。光秀は城の外で家臣団、そして女性たちを出迎えますが、濃姫の駕籠を見た時、場合によっては自分の妻になっていたかもしれない女性であることを思います。実際鷺山城に道三がいた頃の光秀は、濃姫を自分にくれるような気がしてならなかったのです。
その10日ほど後、福富平太郎が光秀を訪ねて、濃姫に目通りします。この日濃姫は、念入りに化粧をしており、光秀は廊下に侍したままで推挙の礼を述べます。濃姫は自分だけが推挙したわけではないと言いつつ光秀に目をやり、光秀は髪が細い方だが、信長の言うような薄禿でないことを確信します。寧ろ、若い頃とそう変わってはおらず、濃姫がそのことを言うと、光秀は士に対する褒め言葉ではないと苦笑します。しかし濃姫はあくまでも容貌のことを言ったのでした。
その後2人は桜の木から、山城入道、つまり道三のことに話題を移します。驚いたことに、濃姫はお万阿のことも、山崎屋庄九郎のことも知っており、光秀にもお万阿のことについて尋ねます。光秀はかつてお万阿に会った時に聞いたこと、つまり自分の夫は油商人の山崎屋庄九郎であり、長旅をしては時々京に戻って来ていた、道三などという人物のことは存ぜぬと言い、濃姫も面白いお方だと興味を持ちます。
さらに道三のように、京と岐阜とで別々の人生を送った人物など、古往今来存在したためしがないと言い、濃姫は男の理想(ゆめ)でしょうと答えます。光秀は改めて、道三という人物のただならなさを思います。実際道三は、彼に取っては神と言うべき存在でした。濃姫は、そなたも2人の正室がいるかと問うものの、光秀は、流石にそれは自分にはできないこと、自分の妻はお槇ということ、そして子供は娘ばかり3人であることなどを話します。娘ばかりでは後継者がいないわけですが、だからと言って光秀は側室を持とうとはしませんでした。
その後濃姫は
「十兵衛殿は穏和でありまするな」
と声を立てて笑うものの、それが光秀には気に入らないらしく、
「なんの、世に志のある者が穏和でありますものか」
と答えるのですが、これには別段深い意味があるわけではありまぜんでした。しかしこの16年後、それが現実のものとなり、この両名がそれに関与することになります。
なおこの時期光秀は、信長から知行地を貰うと同時に、足利義昭からも扶持を貰っていました。2人の主君がいたわけですが、足利義昭の場合は将軍という雲の上の人であり、普通の主と家来という関係とは捉えにくい関係でしたが、そういう家来は、これから京へ上ろうという織田家に取っては必要不可欠な存在でした。そして光秀は当面の仕事として、その義昭を金ヶ崎から美濃へ連れてくることになります。
光秀と濃姫が再会します。今回は光秀に取っては、主君の正室としての濃姫に会うわけで、話題は自然と道三のことになります。ここで光秀は、濃姫がすべてを知っていることに驚くわけですが、寧ろ娘にそういう話を聞かせるということは、道三らしくはありました。無論この原作では、道三は油商人であり、なおかつ美濃の守護代でもあったわけですが、最近では父子二代で美濃の守護代に上り詰めたという説が有力で、『麒麟がくる』ではこちらの方を採用しています。
また、1人で2人分の人生を送った道三というのは、実に浮世離れしたものでしたが、同じ時期に2人の主君がいる光秀の立場もかなり特殊といえます。また濃姫から穏和であると言われた光秀は、その言葉を否定します。その前に、そなたも変わらないと言われた時にも一旦否定しており、道三の死後様々な辛酸をなめたこの人物としては、昔のままの十兵衛として見られることに抵抗があるのでしょう。「穏和」という表現に関しては、1997年の『毛利元就』でも、嫡子の隆元が優しいといった表現をされることに不快感を示しますが、この時代の武将は特に、そのような表現をされることに於いて、自分が無能であると言われたに等しい感情を持ったともいえそうです。
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