結局将軍を立てるための京への出兵は、見送られたというか、鞍谷刑部によって猛反対され、義景もあっさり却下してしまいます。しかしその後も光秀はこの主君を粘り強く口説き、義秋の身辺が危なくなれば、越前一乗谷に匿うという方針を打ち立てるに至ります。しかしこの説得は、光秀だけの功績ではありませんでした。幕臣である細川藤孝が、義秋の正式な使者として一乗谷へ赴き、助太刀をしてくれたのです。流石に幕臣ともなれば、朝倉家も信用しないわけには行きませんでした。
また藤孝は、義景や重臣たちの前で、光秀をさりげなく売り込むことも忘れませんでした。しかも光秀の家を宿泊所とし、そこに滞在し続けたことも、光秀の一乗谷での評価を上げるのに役立ちました。この時、光秀に満3つの娘がいましたが、この娘の可愛らしさと気品に父の光秀も藤孝も驚き、藤孝が抱き上げようとします。するとこの子は、素手でなく袖で包んで抱いてほしいと言います。これに藤孝は彼女の気位を感じ取り、自分の息子である与一郎の嫁にしたいと言い、光秀もうなずきます。
藤孝が越前を発った後、光秀の朝倉家での待遇は格段によくなりました。既に義秋は、有力大名に使者を派遣し、事実上の将軍としての存在感を示し始めます。越後の上杉、尾張の織田とは親しくなり、こうなれば朝倉家も負けてはいられなくなります。近江の矢島にいる義秋に金品を献上し、このおかげで矢島に堀を巡らせた新しい館が建てられました。光秀は再度近江と京へ向かうべく朝倉家の許可を得て、今度は弥平次をはじめ5人の供を連れていました。
この旅は、夏の暑い日差しの中を騎馬で進むものでした。近江の水田の中を光秀は進みながら、弥平次に、軍書を読むように言い、さらにゆくゆくは馬上天下の乱を鎮めたいが、その時は弥平次も大軍を率いることになると諭します。しかし今現在の光秀は大軍どころか、5人の人数しか連れていません。しかも弥平次からは、日本一の軍法達者と言われており、現実との落差に光秀自身一種の滑稽さを感じて、それを口にしますが、弥平次にはぴんと来なかったようです。
やがて矢島の御所に到着しますが、藤孝は織田家へ出向いていて不在でした。それでも幕臣たちは、この足利家再興の大恩人に対して丁重に振舞い、朝倉家でそのような待遇を受けていない光秀は感激します。その後桔梗の紋の素襖に侍烏帽子という格好で、光秀は義秋の御前に出ます。義秋は髪も伸び、以前ほど細かいことにはこだわらなくなっていましたが、どこか軽くて騒々しいという印象は相変わらずでした。
義秋は方々に使者や文を送り、上杉にも上洛するように催促しているようでした。しかし彼が越後を出ようとすると、武田や北条が動き出すため、この両家にも文を送ったところ、いくらか恐れ入っているようだとも言います。どうもこの人物はその辺の見方が甘いようです。義秋は京の情勢についても触れ、光秀はそれに対して、三好三人衆と松永久秀が仲間割れしているようだと言います。これは越前で手に入れた情報でした。義秋は彼らは自壊すると言いますが、どうも希望的観測のようです。
光秀は京へ潜入し、実情をさぐりたいと申し出ます。しかし義秋が一番懸念しているのは軍事勢力より、三好党が担いでいる人物に対してでした。その人物は足利義栄と言い、阿波から三好党に担がれて京へ上ろうとしていました。義秋はこの人物を「田舎育ちのうつけ者」とののしりますが、実際三好党は京都から山城、摂津そして河内方面を押さえているため、ことは義栄にかなり有利なように見えます。しかし義栄本人は、摂津富田に留め置かれたままでした。
これはどうやら、三好三人衆と松永久秀の仲違いに端を発しているようでした。しかしそれにしても、義栄がもし先を越されるようなことがあれば、義秋の将軍就任の夢はついえます。さらに義秋の後援者である上杉、織田、朝倉は遠国の大名で、しかもそれぞれが対立しているとあっては、義秋の立場もかなり危ういものでした。義秋は言います。
「わしの足もとに火がついている」
つまり藤孝が尾張へ出向いたのは、信長に上洛を催促するためのものでした。信長も上洛したいものの、京へ上って三好や松永を討伐すれば、今度は美濃で火の手が上がり、近江の浅井などと結託しないとも限らず、信長はそれを怖れてなかなか動けずにいるようです。その後光秀は京と松永の本拠地奈良へ行き、三好と松永がどれだけの勢力であるかを見て回った後、近江に戻ると藤孝も戻っていました。
事態は転変しており、御所のあちこちで荷造りが行われています。最早彼らが採るべき策は、琵琶湖を渡って若狭または越前へ逃げ出すことでした。光秀は、背中に夕陽を浴びたまま立ち尽くします。ここまで来て、また逃亡生活を余儀なくされることになったのです。なぜこのような事態になったのか、それは南近江の大名六角氏が、義栄を擁する三好・松永の勢力に寝返り、義秋を追う立場に回ったからでした。
京への出兵に関して乗り気でなかったお屋形様義景が、細川藤孝の説得もあってやっと重い腰を上げ、いざという時には義秋を匿うことになります。この藤孝は、この作品本文によれば「光秀のあばら家」に滞在し続け、これが光秀の評価を大いに高めます。傾いたりとはいえ、流石に天下の幕臣です。さらに光秀の娘、最早言うまでもありませんが、与一郎こと後の忠興の妻となる玉(ガラシャ)です。
さて義秋の方ですが、既に将軍として使者を方々に送ったりしており、大名たちもこぞって金品を献上するようになります。流石に朝倉家もこのことを無視できませんでした。しかしながら、仲違いの噂があるとは言え、三好や松永の勢力はことのほか強く、彼らが担いでいる義栄の方が、義秋より先に将軍になりかねない勢いです。しかも情勢がにわかにあらたまり、義秋は今度は琵琶湖を渡って逃げ出すことになります。
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