まず、九州南部豪雨で被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。また亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
では本文に行きます。光秀は世話になった多羅尾の屋敷を発ち、和田惟政の館へ向かいます。光秀の着衣には、逃げ延びる途中で敵を斬った時の血飛沫が、そのまま残っていました。このため木津の寺では怪しい者と見られ、また信楽の百姓家では、山中で熊に襲われてこうなったとわざわざ説明しています。ともあれ彼が無事ここへたどり着いたことに、細川藤孝は喜びます。また覚慶も是非会いたいと言いますが、その前に光秀は、屋外にある供待部屋のような部屋で待たされます。
これが無位無官である光秀の辛さでした。覚慶がいると思しき部屋には灯りがつき、人の声がしています。光秀はいつか自分も城を持ちたいと思いつつ、徒手空拳である我が身をも嘆かずにはいられませんでした。しかも濃姫の夫である信長は、稲葉山城を征したと聞いており、自分もあの男には引けを取らぬはずだと、またしても信長を意識し始めます。既に風は冷たくなっており、その中を藤孝が手燭を持って現れます。
藤孝の第一声は「蚊が大変でござったろう」でした。秋を思わせつつもまだ蚊がいる季節で、光秀も物思いにふけっていたせいか気が付かず、脛や腕を食われていたことに気づきます。光秀は、蚊いぶしの気配りすらして貰えなかったのです。そして藤孝は、覚慶が会いたがっていると告げ、御座所となっている書院に入ります。覚慶は騒々しいほどにはしゃぎ、光秀はこの将軍後継者に運命を託し、幕僚となる決意を固めます。
こうして光秀はそのまま和田館に滞在します。後ろ盾がほしい覚慶は、誰を頼るべきかを周囲の者に尋ねます。しかしその中でも、はるばる薩摩まで足を運んだ光秀が、島津家の将軍思いを語った際には一同うなずかざるを得ませんでした。しかしいずれの有力者も、近隣諸国との戦に忙しく、上洛するだけの時間はなさそうです。そこで覚慶が話題にしたのが織田信長でしたが、光秀は織田家が所謂名家でないのを気にします。
光秀は「素性卑しけれども実力あり」では当てにならない、今の三好や松永がいい例であると述べます。結局遠国の頼りになる大名へは御教書(近臣による私信形式の文書)を出し、兵は近場で集める方法を採ります。即ち南近江の六角承禎、鉄砲を有する根来衆、光秀が客分となっている朝倉氏などに頼るやり方で、その内幕臣たちもこのことを聞きつけてやって来ます。光秀は彼らに、御内書(将軍による書状形式の公文書)や御教書を携えて諸国に行かせることにします。
しかしこの時はとにかく資金がなく、幕臣たちはまず往路の路銀のみで行き、大名に献上金を出させ、復路の費用はその金で賄うことにします。そして光秀は一乗谷に戻り、お屋形である義景に、護衛兵の派遣と金品の献納を決めさせます。再び和田館に戻る途中で、近江の浅井と六角にも約束を取り付け、また当の覚慶は同じ近江の矢島の少林寺に移り、そこで髪を伸ばし、義秋と名乗ります。この地は方々の情報が入りやすく、尾張の情報も入り、光秀はその様子を検分すべく尾張へ発ちます。
覚慶を脱出させ、和田館に匿ったまではいいものの、問題はその後をどのようにするべきかでした。何しろ将軍後継者といえば、護衛も必要ですし経費もかかります。しかも遠くの大名は戦乱続きで、京へ上る時間的余裕はありません。そこで光秀が考えたのが、幕臣たちに片道の費用だけ持たせて、御教書や御内書を遠国へ持参し、そこの大名たちには献上金を出させて、帰りの経費を賄うやり方でした。
僧院を抜け出して自由になれた覚慶も、にわかに現実の厳しさに直面します。藁にもすがりたいほどの思いであり、光秀にかなりの期待を寄せたのも無理からぬ話です。しかし光秀もあちこち旅をしまくっていますが、この場合覚慶を連れ出して、幕府を再興し、自分がその幕府の重臣となるという理想が裏付けとしてあるだけに、それもまた納得できます。そして、何かと自分と比較せずにいられない男、信長の本拠地の尾張に向かって、その勢いが本物であるかどうかを確かめようとします。
尚ここでは書いていませんが、この同じ時期、信長は美濃を攻略して稲葉山城を落としています。それについては、「『国盗り物語』に見る信長」の方で書きたいと思います。
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