後ほど改めて書きますが、『麒麟がくる』第20回「家康への文」、色々と突っ込みどころが多そうです-桶狭間の裏で光秀が暗躍していたりとか。これも織田が元康を寝返らせようとするだけなら、まだ理解できるのですが。しかし急にまた鉄砲が出て来たりしていますね。それと朝倉義景が蹴鞠をしているのは、公家へのもてなしの意味もあるから、そう光秀が苛立つべきことなのかとは思いますし、越前でくすぶっているのが嫌なら、やはり仕官をするべきではないかと思われます。あと架空の人物が色々と忙しくなって来ているようです。
それと少し前に書いている光秀の桶狭間観戦、どうもそれが実現しそうです。越前行きも的中しましたし。もちろんこれは道三が行かなかったから、伊呂波太夫が光秀の道案内を務めるとは思っていましたが。しかし今後もこのまま織田家に仕えるとか、将軍義輝が襲撃された際に、助太刀として駆け付けるとか、斎藤義龍追放の指揮を、自ら執ったりするなどとなるのではないかと思われます(何やら『花燃ゆ』の美和の行動予想の様です)。
尚私はガイドブックの後編は購入していませんので、次回以降の内容はまだ把握していません。とは言ってもこの次で一旦休止ですが。やはり個人的には、題材はこのままで桶狭間以降をもう一度練り直し、数年後に放送してほしいと思っています。
それから先日書いたガイドブック関連の「まっすぐな」主人公について、もう少し詳しく書いてみます。
「その一方で、殺しあいが日常的におこなわれている時代ですから、命がけの選択を瞬時に迫られることも多いわけです。現代とは全く違う動物的な感覚で動かざるを得ない戦国時代において、『悪人か正義の人か』『白か黒か』なんて単純に分けられるはずがありません」
となっており、光秀は今は無色透明で、これから様々な色に染まって行くとも長谷川さんは語っています。無論これは制作サイドの考えでしょうし、別にこの人物は善だ悪だと最初から決めつける必要はないのですが、光秀の場合本能寺で豹変したと思われる部分はあるわけで、なぜ本来そうでなかったはずの人物がそうなったのか、その背景を細部にわたって描くことこそが求められてくるのは事実です。
それからこの中の、
「殺しあいが日常的におこなわれている時代ですから、命がけの選択を瞬時に迫られることも多いわけです」
「現代とは全く違う動物的な感覚で動かざるを得ない戦国時代」
という部分は、今までも何度か引き合いに出していますが、『真田丸』関連インタビューでの三谷幸喜氏の言葉を思わせます。こちらは
「戦国の人々は、明日死ぬかもしれない状況で、毎日を死に物狂いで生きていました。人生観も死生観も現代とは当然違うわけで、そもそも平和の概念がどれだけあったのか」
「やっぱり斬られたら痛いのは、昔も同じですから、そういう生物学レベルで、戦国を描いてみたい」
と、表面上は似通ってはいるものの、前者はやはり戦国へのネガティブさがあり、それが「殺しあい」「現代とは違う動物的な感覚」と言った表現を取っていると思われるのに比べ、後者は「人生観も死生観も現代とは当然違う」と結論付けており、生物学レベルという表現が、等身大の戦国を現わす言葉として使われています。これに関しては、またガイドブックの比較でやって行きます。この2つの戦国大河、両方好きと言う人も多いでしょうが、そのコンセプトはやはりかなり異なりますね。
あと私としては、寧ろダークヒーローとしての光秀を見たかったなとは思います。この人物にも諸説あり、信長に仕える前は医師であったとか、裏切りや賄賂が好きだったなどという説もあるほどです。そういうのを上手く組み合わせて行けば、単にまっすぐさのみを売りにするのではなく、そこそこ強かでしぶとくて、やり手の光秀が主人公、もしくは準主人公として登場したかもしれないのです。
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