先日
昭和48年の『グラフNHK』より という投稿をしています。この中で、『国盗り物語』の脚本担当である大野靖子氏のコメントを一部ご紹介しています。大野氏は他にも、
「混迷、自己喪失の昭和元禄に、常に”死”と対決しながら、それぞれの生涯賭けた夢を実現すべく、持てる知力と気力を振りしぼり、その可能性にいどんだこの物語の主人公たちを、なまなましく視聴者にぶっつけてみたい欲望にかられる」
とコメントしています。
片や今年の脚本担当である池端俊策氏のコメントは、こうなっています。
「乱世では、平穏の象徴である麒麟の到来の夢は持っているけれども、現実は戦いの連続です。じつは、現代も同じなんですよね。夢がなければ安心して生きていけないし、どこかに麒麟のような存在があって、それがいつかくるという希望や信念をそれぞれが持っていると、もっと世の中がよくなるのではないかと思っています」
(ニッコームック『麒麟がくる』完全読本)
同じ時代、同じような登場人物のドラマであるにも関わらず、かなり異なった印象があります。
大野氏の場合、ある意味「平和ボケ」した感のある現代に、乱世ならではの壮絶さをぶつけてみたいと言った意志が見て取れますが、池端氏の場合はどこかその壮絶さをネガティブに捉え、いつか平和な世が来ることをと願うことが前提になっています。だからこそ「麒麟がくる」というか、「麒麟を待つ」ことになるのですが。しかし戦国大河というのはやはり壮絶さあるいは凄絶さがものを言うわけであり、その意味でも大野氏のコメントの方が、女性でありながらも男前な印象を与えるように思えます。
実際大野氏は、『花神』で再び司馬遼太郎氏の、今度は幕末という乱世を舞台にした大河を手がけるわけですが、その時『国盗り物語』でやろうとしてできなかったこと、互いにあれこれ議論したことなどが書かれており、私にしてみれば、総集編ではあるもののかなり堪能できるこの大河も、制作側から見れば、まだ足りなかった点があったのかと思うことしきりです。時代の違いもあるのかも知れませんが、この2つの作品がここまで違うと思わざるを得ないのは、やはり制作側の考えの違いも関係しているのでしょう。
無論大野氏のコメントにある、
「それぞれの生涯賭けた夢を実現すべく、持てる知力と気力を振りしぼり、その可能性にいどんだこの物語の主人公たち」
と言うのは、天下取りが前提になっています。ただこの天下と言う概念も、『真田丸』ではそこまで意味を持たず、戦いの中でその日その日を生きるのに精一杯だったと言う考えが出て来ます。ですから大河も時代によって、いくらかの違いはあって当然でしょう。しかし『真田丸』の場合、いつか平和が来るという考えもまたありませんでした。特に今回の時代のように下剋上が当たり前であり、日々戦いの連続であるからこそ、
「いつか平和が来る」
のではなく、
「この乱世をどう生き抜くか」
がテーマになってよかったのではと思っています。
ところでこの時明智光秀を演じた近藤正臣さんですが、実は藤吉郎→秀吉役の火野正平さんとは同じ事務所でした。その事務所の関係者の紹介によるもののようで、それを考えると、火野さんはある種バーター的な出演だったのでしょうか。しかし近藤さんの光秀が嵌り役であったように、火野さんの藤吉郎もかなりの嵌り役でした。秀吉役がこれほど似合った俳優さんは、この火野さんと竹中直人さんではないでしょうか。
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