一方『麒麟がくる』の方は、戦国大河の割には、主人公があまり試練に遭わず、目標としたことが一応はうまく行く点、さらにはオリキャラの出番が多い点に物足りなさを覚えています。主人公に、もうちょっと辛酸をなめさせてほしいとは思います。あるいはこれからそうなるのかもしれませんが。
そしてこれについては先日も最後の方で書いていますが、鈴木氏の『麒麟がくる』と『真田丸』の比較で思い当たったこととして、それぞれの脚本家のアプローチの違いが挙げられます。鈴木氏は『麒麟がくる』に比べると、『真田丸』の方がより女性に受け、大衆的であるという見方をしています。特にNHKガイドブック座談会を見る限りでは、池端氏の言葉はどこか抽象的で、『麒麟がくる』を高尚なものにしたいという意図が垣間見えます。
一方『真田丸』ガイドブックの三谷氏の言葉は具体的であり、これはドラマなんだから平易に書きたいとコメントしており、この違いがそれぞれの求心力の違い、『真田丸』が広い層に受けた理由となって表れているようです。あるいは『麒麟がくる』は、池端氏の理想に足を引っ張られている部分もあるのではないでしょうか。
また『麒麟がくる』というタイトルと、『鎌倉殿の13人』のタイトルの違いについても書いています。この場合、麒麟は「光秀以外の」平和と安定をもたらす人物で、光秀がそれが来るのを待っているわけですが、北条義時は、その13人の中に入っているわけです。やはり主人公は、本当はタイトルの中に入っていてほしいし、ある程度捻ってもいいけど、捻り過ぎないでほしいと思う所以です。
どちらかといえば、『麒麟がくる』は現代ドラマの方が面白いのではないか、そういう気さえします。ちょっと妙な言い方ですが、この光秀と道三や義龍(高政)との関係、あるいは野盗の襲撃があるのにすぐに京へ旅立てるという辺りに、どうも戦国らしい条件の悪さを感じ取りにくいところがあります。
ただ現代ドラマだと、個人的には池井戸作品などの方がやはり面白いかとは思います。そういえばこれは偶然でしょうが、『半沢直樹』と『ノーサイド・ゲーム』それぞれの主人公の中の人は、『真田丸』では兄弟を演じていましたね。
『ノーサイド・ゲーム』といえば、君嶋隼人の妻の真希と、『真田丸』のきりとにどこか相通じるものがあります。ラグビー嫌いで(これは最初の頃の隼人も同じ)、FC東京のファンという設定の彼女は、夫にずばずばものを言い、アストロズの活動にもあまり関心を示さないのですが、時として正鵠を得た物言いをすることもあるというキャラです。その真希も結局最後はラグビーに理解を示し、アストロズとサイクロンズの頂上決戦を観に行くという展開です。
ラグビーと言えば、『麒麟がくる』の座談会で池端氏が、予定調和でなくとっさの判断を捉えていきたいと語っていました。これは平尾監督が、代表の試合で目指していた「型にはまらない、瞬時の判断」を連想させます。ただとっさの判断というのは、チームのメンバーが互いを知り尽くしていないとできるものではありません。無論長期間の合宿を張るなどして、チームとしての精度を高めることで、誰が何をしようとしているかが把握でき、とっさの判断がスコアに結びつくことも可能になりますが、平尾監督時代はそれが不可能でした。
ただドラマ制作の場合、「とっさの判断」とは如何なることなのか。
「恐らくは冷静になるべきと思いつつ、道三も光秀も感情に動かされてしまうということ」かと雑考3で書いてはいますが、これもあるいは予定調和、要はお定まりの展開に囚われたくないという、池端氏の理想ではあるのでしょう。ただ『真田丸』の場合、こちらは脚本家と出演者の座談会はないので、屋敷チーフプロデューサーのコメントですが、
「まずは登場人物たちにドラマの中でリアルに生活してもらうこと」
とあり、制作サイドが出演者に求める物は、結局それに尽きるのではないかと思ってしまいます。