先日も触れたNHK出版の『麒麟がくる 大河ドラマ・ガイド』に出て来る座談会に関して。そもそも大河のガイドブックの座談会は、ここ何年かは出演者のみで行われることが多く(『真田丸』前編のみ、堺雅人さんとシブサワ・コウ氏の対談になっていました)、収録や演じる役の話がメインになっていて、これがいわばドラマのPRの役目も果たしていたわけです。
ただ今年の場合、脚本家である池端氏が座談会に登場していることもあり、しかものっけから「『麒麟』という概念を問いかけて行くドラマ」とあります。そのため『麒麟がくる』というドラマを、脚本家がどう書きたいのかを語るというより、麒麟とは何ぞや、道三は光秀にどう影響したのかといった話題が中心になりがちです。池端氏と長谷川さん、本木さんの3人で、麒麟という概念と脚本とを語っていると言った方がいいかもしれません。
しかも所々抽象的とも取れる言葉が登場します。池端氏の場合ですが、
「僕はね、『自分が光秀だったら?』と思って書いているんです(中略)外に視野を広げる中で、全体の平和がなければ個々の争いが絶えないと気づき、麒麟と言う概念に行き着くわけです」
「脚本家としては、そういうとっさの判断を捉えていきたいわけ。予定調和でなく、『どうするの?』とドキドキしながら見てほしい。のちの『本能寺の変』のジャッジも含めて」
(NHK出版『麒麟がくる NHK大河ドラマ・ガイド』P6、10)
前者の方は、要はこの乱世をすべて終わらせないと個々の争いは続く、そこで出て来るのが、天下を統べる麒麟的存在の人物という意味に取れます。後者の「とっさの判断」は、その前の会話から察するに、恐らくは冷静になるべきと思いつつ道三も光秀も感情に動かされてしまうということでしょうが、どちらも何かもどかしさを感じさせる表現です。
尚この「外に視野を広げる…」は長谷川さんが言ったとされていますが、その前の会話を見る限り、長谷川さんはそういうことを言っていないのですが…文字起こしの際に欠落してしまったのでしょうか。あと本木さんも、
「役者どうしの化学反応とか、思わぬ風が吹くとか、偶発性も借りながら、よい意味で予定不調和なものが画面からはみ出たらいいなと思っています」(P10)
と語っていますが、これも池端氏同様、ちょっと具体性が感じられにくくはあります。無論本木さんはかなりお芝居を頑張っているし、そういう実体験の中から出て来たセリフではあるのでしょうが。
池端氏の言葉にはご本人の理想は感じられますが、どのようにして創作も含めた光秀像を構築していくのか、そういうマクロな部分がいささか見えにくいところもあります。ただ道三と光秀の関係への言及には、物語の進み具合や両者の関係などが垣間見えるところもあって、そういう部分をこそ強調してほしかったです。
これも先日書きましたが、『明智光秀』といったタイトルであったなら、「麒麟」という概念に引っ張られない分、光秀がどのように成長し、どのようにして信長と出会い、どのようにして裏切るかがより明確になったのではないかと思います。
それと「史実の先入観抜き」というのは長谷川さんの言葉です。これは長谷川さん個人の意見というより、この大河のコンセプトの1つなのでしょう。しかしそれでも史実というか、どのような時代であったかを知るのは不可欠です。そのために公式サイトで、ドラマの背景の解説をしたりしていると思われます。尤もこれに関しては、まず視聴者一人一人が自分で下調べをしていいのではとも思いますが。
ところで4年前、『真田丸』の脚本担当である三谷幸喜氏は、やはりNHKのガイドブックでこのようにコメントしています。
「『戦を終わらせ、平和な世を作るぞ』的な会話も、今回は敢えて避けるつもりです。戦国の人々は、明日死ぬかもしれない状況で、毎日を死に物狂いで生きていました。人生観も死生観も現代とは当然違うわけで、そもそも平和の概念がどれだけあったのか。
とは言っても、(戦をしないで済むなら、したくないなあ)くらいは考えていたと思うんです。やっぱり斬られたら痛いのは、昔も同じですから、そういう生物学レベルで、戦国を描いてみたい。つまりは目線を下げるということ。大河ドラマは『ドラマ』なんです。歴史の再現ではない」
ここで三谷氏を出すべきかどうか迷いましたが、一応男性主人公の戦国大河ということで、インタビューのこの部分を抜き出してみました。かなり池端氏の視点とは異なっているなとは思います。無論脚本家によって、どのような描き方をするかは様々であり、三谷氏が正しいというわけでも、池端氏が間違っているというわけでもありません。ただ『軍師官兵衛』の前川洋一氏もまた、「よく知られた人物や有名なできごとは、史実から大きく逸脱した描き方はしないつもりです」と、ガイドブックで語っていて、その意味では史実に忠実であると言うことができます。
しかも大河ドラマというのが娯楽作品である以上、制作サイドが何をどのように描きたいかがはっきり示される方が、そのドラマに関心が行きやすいという側面もあるでしょう。その意味で、この『麒麟がくる』はかなり大きな賭けのようなところもあります。それが吉と出るか凶と出るかは、今は何とも言えません。ただせっかく「麒麟」という、いわば崇高な存在を持って来たのであれば、あの色遣いや殺陣に関しても、もう少し考えて頂きたかったとは思っています。
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