まず『麒麟がくる』のタイトルに関してです。先日も書いたように、この場合麒麟=光秀ではありません。これは脚本の池端氏も言っていますが、信長が麒麟と言う言葉を好んで使っていたところから、その単語を使おうということで、プロデューサーと意見が合致した(ニッコームック『麒麟がくる 完全読本』)ということです。で、その後麒麟というモチーフについて色々と語っていますが、なぜ主人公自身をタイトルに絡めなかったのかという点については、語られていません。
一方NHKの『麒麟がくる 大河ドラマ・ガイド』の方では、長谷川さん、本木さんとの座談会で、争いのない世はくるのかという問いかけを込めたタイトルと、池端氏はコメントしています。いずれにしても、タイトルが主人公そのものを表現していないという点で、どこか分かり難さが生じます。それこそ「麒麟を呼ぶ男」とか、「麒麟を待つ男」などにした方が具体性を帯びますし、いっそのこと『大河ドラマ・明智光秀』でもよかったのではないでしょうか。「麒麟」自体は信長のことだろうと思われますが、この座談会では斎藤義龍(高政)も麒麟であるような物言いもありますし、ちょっと曖昧模糊としているなと思います。
またこの座談会自体、「とっさの判断で捉えて行きたい」とか、「史実の先入観にとらわれることなく」などという会話もあり、脚本というかドラマ進行のそういう方向性が、他の大河と比較してどこか違う印象を与えているのだろうと思います。尚この「違う」は、必ずしもいい意味ではありません。そのようなコンセプトが大河と合うのかなとも思います。何だか故・平尾誠二氏が日本代表を率いて「とっさの判断」を強調していた頃を思い出します。また皮肉なことにというか、『いだてん』の制作統括の訓覇圭氏は、近代は複雑で難しい、戦国のように遠い時代の方がシンプルとコメントしています。これに対する池端氏の意見を伺いたいです。
『いだてん』と言えば、落語パートが要らないという意見がありました。今回それと似たような感じで、見ていて違和感を覚えるのがやはり色合いです。特に色合いというのは、直接五感に訴えてくるため、人によって好き嫌いがはっきりし、それがドラマの視聴に影響することも考えられます。ドラマが面白い面白くない以前の問題であるかとも思われます。
それと織田家の描写で、尾張の侍である織田信秀が、京風の文化に馴染めないところはそれなりに面白いのですが、一方でオリキャラが出過ぎな感もあります。これも主人公である光秀の前半生がはっきりしないためということもありますが、竹千代との出会いの設定などはちょっとどうかと思います。見も知らぬ農民に果たしてああいうことを言うでしょうか。あと東庵も多少出過ぎな嫌いはあります。
それから光秀が、なぜか急に鉄砲がうまくなっていますが、それ以前に、いとも軽々と鉄砲を構えているのも変です。少なくとも、あまり重たそうには見えません。この当時の火縄銃は、口径によっては10キロ以上あったとも言われています。光秀の銃がどの程度の物であるかはともかく、甲冑を撃ち抜けるほどであれば、そう軽い物でもなかったでしょう。ちなみに『西郷どん』では、はからずも、明智の末裔という俗説のある坂本龍馬がミニエー銃を構えて、やはり甲冑を撃ち抜くシーンがあります。このミニエー銃は4キロという重さですが、その龍馬の様子と光秀の様子は大して変わりません。余談ながら、この時のミニエー銃の破壊力はすさまじいものです。
鉄砲を構える光秀(『麒麟がくる』公式サイト動画よりキャプ)
ミニエー銃を構える龍馬(『西郷どん』公式サイトより)
あと殺陣なのですが、この第4回も斬り合いの所作だけをやっているように見えます。あの織田の家臣(素襖の色はこちらの方が時代相応だと思います)相手に「お前ら死にたいか」などと言っておきながら、あの刀捌きは如何なものでしょうか。しかもその後すぐ折れてしまうとは、笑えないジョークのようにも見えてしまいます。しかしあの程度で折れるとは、信秀の家来の刀もかなり脆いですね。『軍師官兵衛』で、官兵衛一行が山賊に襲われて金を奪われそうになるシーンの方が、もう少しリアリティがあったと思います。
しかも「お前ら死にたいか」という台詞、刑事ドラマで追いつめられた犯人が、刃物を振り回して逆上しているようにも聞こえてしまいます。もう少し戦国らしいセリフはなかったのでしょうか。その直後謎の投石隊が登場して光秀は命拾いをしますが、『真田丸』で信繁たちが、室賀の農民を追い払ったのを思い起こさせます。
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