寛永2(1624)年毛利輝元が亡くなり、さらに家康の長女亀姫も世を去って、家康の子供たちの内、娘たちはすべていなくなりました。その翌年、秀忠は珠姫の娘を家光の養女とし、津山城主森忠政の子、忠広に嫁がせようとします。この森忠政は森成利(蘭丸)の弟で、お江は浅井と織田の再興を望み、織田家に関係のある家と縁組みを望んでいました。一方で家光は鴻巣で狩りをし、天海に会います。天海も後水尾天皇の二条城行幸に同意していました。そこで家光は二条城の修復を行わせることにしますが、もし行幸がなければという懸念の声もあり、家光はその時は自分が腹を切ると断言します。しかしお江は家光が女性を近づけないのを案じ、蒲生忠行の家臣岡半兵衛の娘、お振を男装させて送り込みます。しかし朝廷からの行幸に対する返事はなかなか来ず、阿部正次が大坂城代に任命され、さらに家光の出発日についても、大御所である秀忠は何らはっきりさせませんでした。実は朝廷が、この行幸に対して乗り気ではなかったのです。
これについては発起人の伊達政宗も困っており、しかも朝廷は装束が足りないと言ってきたため、秀忠は五万両を献上することにします。その頃お江はまた病に臥せっており、お福は家光が未だお振にお手付きなしと伝えます。そして秀忠が入室し、千姫の夫本多忠刻が亡くなり、そして千姫が帰ってくると言うものの、お江は娘たちの不幸は何かの祟りではないかと取り乱します。その後お江は自らのこれまでの非を詫びますが、秀忠は自分には過ぎた妻であり、お江失くして今の自分はないとまで言います。その秀忠は5月28日に上洛することになり、京へ入った後に二条城に勅使を迎えます。しかし今度は、行幸は後陽成天皇の喪が明けてからと先延ばしを申し出ます。実は五摂家が、この行幸に反対していたのです。秀忠は10日の内に返事がなければ江戸へ戻り、家光の室孝子も実家に戻すという強硬手段に出て、何とか行幸の約束を取り付けます。その頃江戸では、お江の娘で常高院に育てられたお初が、久々に実の母との面会を果たしていました。
家光に上洛の命が下ります。7月12日家光は江戸を発ち、京へ向かいます。そして秀忠はお礼のために宮中へ参内、中宮和子や皇女たち、そして阿茶局に目通りします。孫たちに目を細める秀忠ですが、当の和子はお江の容態を案じていました。行幸は9月6日に決まりますが、日程の面で幕府方と朝廷方が対立します。そして家光は7月19日に久能山東照宮に参り、23日に掛川城へ入りますが、その時訪ねて来た弟の忠長が、兄のために大井川に掛けた浮橋が不用心であると言い、打ち壊せと激高します。やがて8月10日、八条宮が京の伊達屋敷を訪れ、行幸は五日間と決められます。これは政宗の手柄でした。その家光は18日に参内し、従一位右大臣となります。無論家光に同行して来た忠長や他の徳川家の者、さらには大名たちも叙任の対象となりました。ただし秀忠は、太政大臣の官職をこの時固辞しています。そして京で行幸が行われているその時、江戸城ではお江が重体となっていました。
やっと二条城行幸が実現します。これには五摂家の反対、さらに聚楽第行幸の前例を持ち出す公家側と、七日間の饗応で威信を示したい幕府側の間で、かなり対立がありました。京で日取りの調整が行われていたため、家光は、いつ出立するのかさえも決められていませんでした。一方お江は再び病となり、秀忠に徳川家に嫁してから、嬉しいことも悲しいこともあったと、今までの人生を振り返るようなことを言います。秀忠は今度こそは小田原での隠居を考えており、お江も秀忠が江戸に戻った時には、お好きな椿の打掛を着て出迎えると言います。しかしお江は元気になるどころか、その病状は悪化して行くことになります。またお初が面会に来ますが、この娘は千姫の輿入れについて行った時に京で生まれた子で、江戸へ戻る旅が赤子には負担になるからと、姉の常高院に預けて来たのでした。このお江は豊臣秀勝、徳川秀忠の間にそれぞれ子を儲け、さらにその子たちが入内したり、公家と結婚したりしたことから、彼女の血は宮中にまでつながって行きます。
お江はまた実家への思いから、織田家の関係者を特に重んじてもいました。森長可、森蘭丸の弟にあたる森忠政の子に、珠姫の娘をと考えたのも無理からぬ話です。一方で家光、そのお江が送り込んだお振にもそれほど関心を示さないようです。ただしこの人物は後に娘を産み、自証院となっています。そして家臣が上洛に随行する者の名を読み上げた際、尾張様、紀伊様と読んだのに対し、尾張殿と紀伊殿とでよいと言ったことからして、将軍家とこれらの家の身分関係をはっきりさせたがってもいたようです。そして忠長が、兄のためにと大井川に掛けた浮橋のことで怒りを露わにします。どうやらこれは船を並べた船橋だったようですが、幕府の防衛を脅かしかねないものだと家光は主張します。無論それは事実であり、また「治にいて乱を忘れず」の言葉も理解できますが、問題はその高飛車な叱り方です。あれでは忠長を怒らせてしまったとしても文句は言えません。
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