引き続き大河ドラマ関連です。
先日の『鎌倉殿と13人』の制作発表の投稿で、大河廃止論という言葉を使っています。実際今後大河をどうしたいのか、NHKは検討した方がいいと思います。今は視聴者の受信料があるから、予算をふんだんに使って制作できるわけですが、作品によっては惰性で作っている感も否めませんし、いずれそれが不可能になった場合のことも考えてしかるべきでしょう。2023年でちょうど60年、人間でいえば還暦を迎えるわけですから、それを目途に廃止か存続か、存続の場合はどう変化させるのか(たとえば半年体制)させないのか、今までのリメークを行うべきなのか等々、検討すべきことは沢山あるはずなのですが。
それから昨年の『いだてん』を支持する声の中には、戦国はマンネリだからこちらの方がいいという意見もありました。私としては、仮にマンネリであっても戦国の方が、武士の生涯を描けているのならそれでいいとは思うのですが、無論それもまた1つの意見ではあるでしょう。ただそういう人が、もし今年は戦国だからという理由だけで叩くのであれば、どうにも残念なことです。実際に観てみて、この点が面白くないと指摘するのであればまだわかるのですが。その他にも意外な物が史実であるとか、あの三脚巴がいいなどという意見も目にしたことがあります。ただ意外な物が史実というのは『いだてん』に限ったことではありませんし、三脚巴は私の周囲では不評でした。ああいうのもドラマ共々、人によって好き嫌いがはっきりしていたといえます。
いずれにしても、今年の大河が面白くないという人と、観ないのはもったいないから観ろという人というのは、毎年何かしらの形で存在するようです。面白いとか面白くないというのはその人の見方だし、もったいないからと言われたところで観ないでしょう。そもそももったいないから観ろとか、その逆にこんなのを観るのはおかしいといった、他者に観る/観ないのを強要する姿勢は如何なものかと思います。
そういえば先日久々に触れた武者さんですが、最初は『いだてん』を持ち上げていたものの、最終的に批判に回ったようです。この人の批判というと『軍師官兵衛』、『西郷どん』そして『まんぷく』などを思い出しますが、ああいう形で叩かれたのでしょうか。
ところで『麒麟がくる』には、『軍師官兵衛』の前川洋一さんも脚本で参加するということを以前聞いたことがあります。そして武者さんは以前、その『軍師官兵衛』関連で、このようなことを書いていました。
「竹中秀吉は、キャスト発表の時点で間違いなく本作屈指の見所でした」という出だしで始まり、『秀吉』で晩年の暴虐ぶりが描かれなかったから、その補完ができると思ったこと、しかし陽性のキャラの竹中さんに、晩年の秀吉の陰性な部分や狂気は似合わないこと、「心配ご無用」の乱発がくどく二番煎じのいやらしさが出ていたといった記述に続いて、過去の栄光にすがってファンを引き留めるという守りの姿勢が感じられたとなっています。
確かに、この大河の秀吉が過去の大河の『秀吉』を引きずっていた感があり、様々な形でそのイメージがつきまとったのは事実でしょう。しかし当の竹中さんは、公式ガイドブック(大河ドラマストーリー)でこう語ってもいます。
「堕ちゆくヒーローを演じられるという漠然とした期待はあります。主役では難しかったことが今回できるのではないかと」(前編)
「この先、堕ちゆくヒーローとしての秀吉が描かれていきます。(中略)秀吉はこれから金ぴか趣味に走ったりしながら異常さを増して行きますし、演じる者としてはわくわくしますね。(中略)『小牧・長久手の戦い』のあたりから、秀吉と官兵衛の関係に変化が現れてきます。『あの男(官兵衛)は先が見えすぎる』という印象的なセリフをおねに向かって言うシーンがあるのですが。秀吉は官兵衛のことが邪魔になってくるんです」(後編)
「いよいよ『堕ちゆくヒーロー』の終末が描かれ始めました。(中略)ある種狂気の世界へ入っていくんです。そのダークな部分は、秀吉のコンプレックスの表れではないかと想像しています。(中略)でも、演じるにあたっては、素直な人間より屈折している人間のほうが面白い。(中略)『秀吉』から18年たっているぶん、年齢的にも後半の秀吉を演じるのにちょうどよいでしょ?」(完結編)
つまり竹中さんは堕ちてゆく秀吉、『秀吉』で描かれなかった狂気の太閤を演じることに意欲を燃やしていたことが窺えます。武者さんが上記のようなことを書くのであれば、こういう竹中さん自身のコメントも引き合いに出したうえで書くのが、大河のレビュアーとしての書き方ではないかと思うのですが。
これに限らず、『西郷どん』や『まんぷく』でも、たとえば主演の俳優さんが脚本をほめていないなどと書いていたことがあります。しかし公式ガイドブックやムックを観ると、どちらもちゃんと脚本をほめています。せめてこういうガイドブックなり、公式サイトなりに目を通してから書いてほしいものです。
それでもこの部分はまだ比較的まともというか、一応筋が通ったことは書けているとは思うのですが、その後でまた『八重の桜』を引き合いに出しているのはどうかと思います。まず『八重の桜』では父の権八が、覚馬と三郎の死を知った時は感情を押し殺していたといったことが書かれています。無論このシーン自体は評価できるものです。しかしその後で、官兵衛の場合は熊之助の死に感情をむき出しにして泣くと批判しているのですが、幕末と戦国とではまた事情が違います。さらに熊之助の死は、従軍を願い出たものの聞き入れられず、太兵衛の子吉太夫と家出同然で朝鮮へ渡った船が難破したためという前提があり、これは官兵衛や光に取ってもかなりつらいものではあったはずです。それと官兵衛が涙を流したのは、光にもう熊之助は戻らぬと言った後です。はじめからわき目も降らず涙に暮れていたわけではないのに、そういうシーンの考察が無視されています。
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