慶長19(1614)年10月、牢人たちが大坂城に入場し、うち真田幸村は今日へ出兵する作戦を立てます。他にも明石掃部、塙団右衛門や後藤又兵衛など、そうそうたる顔ぶれです。さらに秀頼に、天王寺まで出馬を要請する幸村ですが、大野治長は城にこだわり、籠城を考えます。そのための食糧は木村重成が抑えており、さらに四方の堤を切れば、堀に水をたたえて敵は手も足も出ないというのが治長の言い分でした。秀頼は治長にすべてを委任します。同じ月の16日、岡崎城に滞在していた家康は、単に大坂城を包囲し、誰が主であるかを知らしめる作戦に出ます。秀忠も奥羽の武士を率いて駆け付ける所存でしたが、豊臣を潰したところで65万石程度で、およそ全国の大名に行き渡ることはありませんでした。一方秀忠は関ヶ原の遅参の夢にうなされ、お江からは戦をしないでくれと言われ、さらに今回は出陣ではなく「将軍の意に任せる」という父の伝言を受け取ります。秀忠は和睦を望んでいましたが、表向きは猛々しくと本多正信から諫められ、そこに松平忠輝がやって来ます。
秀忠は留守居役を命じますが、忠輝は弟たちは出陣し、しかも自分は徳川を名乗ることすら許されないと涙を浮かべ、秀忠は忠輝をなだめます。同じ頃大坂では市街地を焼き払い、堤の水を城に引き入れます。徳川方は西国大名に出陣を命じ、しかも先鋒を片桐且元に命じます。且元は豊臣家臣が戦を招いたとしつつも、秀頼の命乞いを家康に願い出ます。そして秀忠は急ぎに急いで大坂を目指し、二条城に入りますが、今度は早すぎると再び叱責される始末です。また関白鷹司信尚が勅命として前関白らと家康を訪れますが、家康は豊臣家の家臣に官職を与えたことを理由に会おうとしません。大坂では真田幸村が城の南に曲輪を作ることを提案し、淀殿は秀吉の甲冑をまとってすっかり臨戦態勢です。そして徳川は動き、藤堂高虎は敵への策略を試みます。家康は茶臼山に陣を敷き、佐竹善宜の軍は今福村の砦へと攻め入りました。
大坂方は籠城するも苦戦し、淀殿が檄を飛ばします。そして幸村が築いた曲輪、つまり真田丸に徳川方が攻め入り、真田軍はこれを敗走させます。松平忠直の勇み足というべきこの敗北は、徳川に取ってはかなりの痛手ではありましたが、家康はさらなる策を立てます。それは相手を銃撃で怯えさせ、和睦に持ち込むという策でした。そして伊賀者を忍び込ませて、千姫の居所を探す手筈を整えます。案の定牢人たちは絶え間ない銃撃に動揺し、頑なな態度を見せていた淀殿も、秀頼の先が見えている、豊臣恩顧の大名は誰一人味方についていないという言葉に、ついに態度を軟化させます。しかし家康はこの和睦案に納得せず、ついに奥の手を用いることにします。それは、オランダから買い付けた大砲を本丸に打ち込むことでした。城中が混乱しますが、秀忠の頭に真っ先に浮かんだのは、娘千姫の安否でした。
いよいよ大坂冬の陣です。しかしというかやはりというか、冒頭の軍議のシーンを見るにつけ、豊臣家臣と牢人たちの間が噛み合っていない印象があります。幸村の宇治、瀬田に攻め入るというのは、あれはやはり父昌幸が練ったものだったのでしょうか。ともかく治長は籠城を主張し、秀頼もまたそれを受け入れます。そこで幸村は南に曲輪、所謂真田丸を作ってそこで徳川方を迎え撃ちます。これは井伊、前田、さらに松平忠直の勇み足でしたが、これにより徳川方は損害を被り、やがて幸村をはじめ牢人たちを揺さぶる作戦に出ます。結局最終的に、本丸に打ち込まれた大砲がもとで和睦に踏み切らざるを得なくなるのですが、淀殿が「太閤殿下の御霊がこの城に乗り移っている」と言う辺り、また治長が城に籠ることにこだわる辺り、豊臣家というよりも、淀殿とその側近たちのこの城にかける思いが並々ならぬこと、そして、ついにはそれが墓穴を掘ることになってしまうことが窺われます。
ところで淀殿がまとっている甲冑と陣羽織ですが、この大河ではまだ普通の物です。『真田丸』で登場した、袖口にレースと思しき物がついた陣羽織、あれが実は本物らしいのですが、しかし随分と派手好みな秀吉の一面が垣間見えます。無論これは『真田丸』とは違い、戦いそのものはそこまで詳しく描かれていませんが、戦国大河としては、やはりこちらの方がそれらしいというべきでしょうか。しかし大坂城の女あるじとして、牢人たちを激励していた淀殿も、ついに徳川と和睦せざるを得なくなります。直接の原因は大砲ですが、何よりも息子の秀頼が、豊臣恩顧の大名が味方についていないと言い出したのもまた一因でしょう。というより、それになぜ気づかなかったのかと思います。そのこと自体、既に大名が豊臣家に加勢しようにもできないということなのですが、それを認めたくなかったのでしょうか。
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