慶長14(1609)年に怒った公家への処罰により、翌8月に当の公家たちは流罪となり、女官は謹慎となります。女官を厳しく罰しなかったのは五摂家の意向でしたが、家康はそれには納得せず、女官たちを駿府まで引っ立てて来いとまで言い、家康はこれを側室たちへの見せしめにするのではという噂まで出ます。一方でお江は既に37歳であり、秀忠も若い側室を持つよう大久保忠隣が促したため、秀忠は大姥局の侍女お静に局部屋を与えますが、このお静は北条氏直のかつての家臣神尾伊予の娘でした。その後島津家久(忠恒)に琉球が与えられ、平戸にオランダ商館ができ、さらに福島正則が改築した居城を壊したこと、木下家定の所領の没収などが秀忠に知らされます。これは高台院が、兄弟に平等に所領を与えなかったため起こったことですが、これを巡って家康を立てる青山や土井といった家臣と、忠隣が対立します。
高台院は今は家康の天下故とことを達観します。この年の10月1日、女官たちは駿府へ送られ、家康は刀を抜いて
「外面似菩薩 内心如夜叉」
と何度も叫び、彼女たちを半ば脅すようにして、最終的には流罪にしてしまいました。このせいもあり、後陽成天皇の御退位の叡旨が家康に知らされますが、お世継ぎの名を賜るまでは知らぬ顔をしておけと家康は家臣に命じます。その頃秀忠はお静の許を訪れますが、大姥局は今出産すれば、お江の子供たちとの年齢が近いため、堕胎を命じていました。秀忠は1人寂しく鼓を打ちますが、一方で松平忠輝の行状の不品行を家臣たちが家康に直訴し、家康は忠輝を呼び出して叱りつけ、その後直訴した家臣たちは流罪または切腹を申し付けられます。さらに家康は先のことを考え、尾張名古屋、駿府、水戸それぞれの城主を決め、市姫には「とてつもない縁組」を考えていました。
翌慶長15(1610)年2月12日、家康は京都所司代板倉勝重に政仁親王の即位の根回しを、名古屋築城を西国の大名に命じます。豊臣家にも負担させようとするも、豊臣家は寺社の寄進優先で、さらに大名ではないと片桐且元は言いますが、家康に言わせれば「65万石の大名」でした。且元の忠義に免じて家康は目をつぶりますが、秀頼とは会いたいと言います。さらに茶室に秀忠を呼び、大名を押さえる策について質問した後、徳川を名乗らせるべき子の名を挙げるものの、忠輝には従来通り松平を名乗らせます。さらに市姫を政仁親王の中宮として入内させようとするものの、市姫は毒虫に刺されて早世、後陽成天皇の退位を1年遅らせるという荒業に出ました。3月に江戸へ戻った秀忠は、お江に和姫がその代わりになることを打ち明けます。さらに家康が子供たちに城を任せる予定であるのに対し、お江は国千代には、与えるべき城はないのではないかと気が気ではありません。
公家たちを追放し、女官たちも流罪にして、幕府の権力を見せつける家康ですが、実際の将軍は無論秀忠でした。ちなみに「外面似菩薩 内心如夜叉」というのは、文字通り、女性は菩薩のように見えるが内心は夜叉のように恐ろしいという意味で、元々は仏道の修行の妨げになるのを戒めたものです。さらに「身分の高いおなごほど始末に負えぬ」とも口にしていますが、これは暗に淀殿のことをも言っているかと思われます。一方秀忠は側室のお静と共に過ごそうとするも、大姥局から、まだ出産は早いので、堕胎するようにと宿下がりさせられたことを知ります。父子の側室事情は対照的であるともいえますが、お静が牢人の娘であることに加え、乱世と太平の世の違いと取ることもできるでしょう。さらに水戸家と尾張家もできることになり、お世継ぎがいない時のバックアップ体制も整うことになりました。
ところで松平忠輝は素行不良で、一部の家臣が家康に直訴に及びます。秀忠でなくて家康です。これに生母お茶阿の局が口を挟み、当の家臣たちは処罰されます。その後秀忠の斡旋で高田藩主となりますが、これは舅の伊達政宗があれこれ言ったせいでもありました。忠輝が悔しさに障子に手を突っ込むシーンがありますが、これを見ると『真田丸』の信繁の妻、春が障子を指で突くシーンを思い出します。さらに名古屋築城、市姫急死による後陽成天皇の退位延期要請となり、これに渋る公家たちに、ならば践祚の費用も持たず、崩御の際も大名たちを参列させないといわば脅します。また築城に金を出さず、さらに人も出さないと言う豊臣家ですが、家康はそれを許す代わりに、秀忠との対面のことで且元に念を押します。この時且元の手を取ったのは、後々自分の下に置くことを考えてのことでしょうか。
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