慶長13(1608)年4月、宮中の風紀は乱れており、家康は密かに関白を交替させようと目論みます。そしてこの年の8月には、秀忠が駿府を訪れます。そこで家康は、軍事に適した築城の手ほどきをし、もし西国の大名が攻めてきた場合にどうするかを息子に尋ねます。秀忠の答えは、関ヶ原の時同様中山道と伊勢街道を敵は通るというもので、そのための要となる安濃津城を建て替える必要があり、藤堂高虎は今治を離れてここの城主となります。家康は将来、謀反が起こることを想定しており、細かいことに囚われすぎていると秀忠を叱ります。無論政仁(ことひと)親王、後の後水尾天皇と血縁関係になることも家康は企んでおり、今の徳川家に取って天下分け目の決戦の相手は、豊臣家ではなく朝廷であるとも言います。武力を以て朝廷に圧力をかければ、朝敵となるのは好ましくないため、このような策に出たわけで、朝廷と豊臣の結びつきを防ぐことも念頭に置いていました。
その豊臣家では、阿波の蜂須賀家に秀頼への臣従を誓うよう、淀殿が誓紙を求めていました。家康はそろそろ秀頼を駿府に迎え、対面する時だと考えます。さらに家康は、いざという時に備えてシャムより武器を買い付けます。隠居のはずの家康がこのように振舞うことに、淀殿は不安を感じますが、秀頼の方は侍女の梢との間に子ができたことを淀殿に告げます。そして家康の後押しにより、完姫の夫である九条忠栄が関白に就任します。高台院を訪れた忠栄に高台院は、天子様のご機嫌を損じてでも公家の不正を正し、豊臣家と昵懇な公家であっても遠慮は無用と言い放ちます。さらに完姫には、徳川と豊臣両家の血を受け継ぐ者として、いざという時の仲立ちを依頼します。そして江戸では、秀忠の末娘の和姫を、公家に嫁がせたいとお江は言います。秀忠の目的は徳川の種を、お江に言わせれば「タンポポ」の如く他家にばらまくことにありました。
翌慶長14(1609)年2月、西国の大名の妻子を江戸に住まわせることや、マニラ総督ドン・ロドリゴがアカプルコまで戻る途中、ウィリアム・アダムスの船を貸し出すことなどが決定します。さらに家康は、西国から謀反が起こった際のもう一つの要、清洲城を点検した結果、尾張名古屋に築城することを決めます。一方で加藤清正や福島正則からは所領の築城を巡って反感を買い、これが後の両者の運命に影響します。そしてこの年の4月、島津家久(忠恒*)は幕府の指示で琉球攻めを行い、5月3日には京極高次が没して、お初は髪を下ろし常高院となります。養女初姫は大名の子ということで江戸へ下向しますが、千姫はなぜ自分は江戸へ下らなくていいのかと淀殿に尋ね、淀殿は豊臣家は大名家ではないからと答えます。その後秀頼に娘の結姫が生まれ、朝廷では九条忠栄が、不祥事の当事者である烏丸光広らの名を公言し、京都所司代の板倉勝重は、軽微な罰で済ませようとする公家に圧力をかけます。しかし家康はこれをよく思わず、極刑にすべしと宣言します。
朝廷と徳川家の関係が綴られて行きます。家康が後押しした九条忠栄、その妻で徳川と豊臣双方の血を引く完姫、さらに豊臣と昵懇の公家であろうとも、不正は罰するべきと言明する高台院。家康に取ってはこれ以上ないタイミングではありました。しかし不祥事、しかも時の後陽成天皇の女御と不倫関係になった、烏丸光広をはじめとする公家たちは、徳川家を見くびっており、自分たちや、身内である女官が忠栄に名指しされて顔色を変えます。彼らに取って武家とは、元は朝廷の守護職という認識で、正に『平清盛』の「王家の犬」の感覚であり、雅を解せぬ存在でもありましたが、時代は大きく変わっていました。家康があまりに厳しい態度を取ろうとするのに対し、天海僧正は朝廷を潰してはなりませぬと諭します。しかしこの一連の、公家への対処の厳しさが、後に和姫が入内するその布石となって行きます。
一方で家康は、西国大名の謀反を強く意識するようになります。蜂須賀家が差し出した誓紙ですが、その蜂須賀家が後年公家を匿い、謀反(宝暦事件)に加担したという設定で描かれたのが『鳴門秘帖』です。そして名古屋に城を築くことになり、尾張徳川家が始まることになります。しかしこの前も書きましたが、やはり公家への対処を巡っては、かなり異なった立場でありながら、幕末物を彷彿とさせます。一方で琉球に侵攻した島津家久(忠恒)ですが、この人物が奄美大島を薩摩藩の直轄としています。それから200年余りを経て西郷吉之助が流され、なおかつとぅま(愛加那)に出会った奄美は、この時に薩摩藩主の管理下に置かれました。尚この家久(忠恒)は、鶴丸城を築いた人物でもあり、さらに真田信繁に対して「日本(ひのもと)一の兵(つわもの)」と評価した人物であるともいわれてます。
(*)叔父に同名の人物がいるため、初名である忠恒と併せて表記しています。
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